アボルファズル・ジャリリ監督
■映像と音が織りなす、壮大な世界
言葉を越えたコミュニケーション──心と心のつながりを描く本作には、台詞が存在しない。しかし、泣き声や笑い声、歌声や祈りの声、さらには風の音や雨の音、火の燃える音や水の流れる音など、日常にあふれるありとあらゆる音が刻み込まれている。その音に呼応する映像は、自然と共に暮らす人々の生の姿を、時にユーモラスに、時に厳しさをも映し取りながら、積み重ねられていく。
一体となったこの映像と音は、壮大な一篇の詩となり、雄弁に語りかけ、圧倒的な力で観る者をとらえて離さない。「この映画を観るたびにいつも新しい発見がある。これは確かに私が創った映画だが、そこには私を超える何かが存在する」とジャリリが語るように、観る者は『ダンス・オブ・ダスト』で、今までにはない"映画"を体験することだろう。
■時代はジャリリに追いつけるか!
製作直後から、理由も判らないまま一切の上映を禁じられてしまった『ダンス・オブ・ダスト』は、封印され、幻の映画となっていた。しかし98年になって、ロカルノ、東京、ナントなどの国際映画祭のスクリーンに、突如姿を現した。たちまち世界は騒然となり、本作は数々の賞に輝くとともに、ジャリリの名は、一躍世界に轟いた。ジャリリは、時代を先取りしすぎていたのだろうか。
その後、フランスで一般公開され、批評家たちだけでなく、観客からも絶賛されヒットを記録した。
そして21世紀になった今、『ダンス・オブ・ダスト』は、日本でようやくそのヴェールを脱ぐ。
アボルファズル・ジャリリ
(Abolfazl Jalili)
<PROFILE>
1957年6月29日、イラン中央部のサヴェーに生まれる。13歳で自分が描いた絵や書を売り生計を立てる。79年、IRIB(イラン国営テレビ)に入社、この間に手がけた短編ドキュメンタリーや短編劇映画を通じて独自の手法を模索する。
少年院の子どもたちを実際に出演者に起用した第3作『かさぶた』(87)により、批評家の注目を集める。だが、常に過酷な状況下にある子どもたちをリアルに描くジャリリの作品は、イラン国内では常に賛否両論の論争を巻き起こし、92年製作の『ダンス・オブ・ダスト』は国内外を問わず一切の上映を禁止される。
95年、原因不明の病気にかかった妹を治そうとする少年を描いた『7本のキャンドル』がヴェネチア国際映画祭で金のオゼッラ賞を受賞。翌96年にはドキュメンタリーとフィクションを大胆に融合させた『トゥルー・ストーリー』がナント三大陸映画祭でグランプリを獲得し、ジャリリの名は一気に世界に知られることになる。
ハタミ政権が成立した後の98年には、『ダンス・オブ・ダスト』がついに海外での上映を解禁され、ロカルノ国際映画祭での銀豹賞をはじめ、各国の映画祭で様々な賞を受賞。同年、サン・セバスチャン国際映画祭では『ぼくは歩いてゆく』が審査員賞を受賞している。また、モフセン・マフマルバフ、ナセール・タグヴァイと競作したオムニバス『キシュ島の物語』は99年のカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に正式出品された。2001年、実際のアフガン難民の少年を主演に据え完成させた『少年と砂漠のカフェ』は、ナント三大陸映画祭で見事グランプリを受賞。2007年には麻生久美子の海外初進出作品となる『ハーフェズ ペルシャの詩』がローマ国際映画祭審査員特別賞を受賞。世界にその名を轟かせる監督である。
<インタビュー>
○ 監督にとって風とは何ですか。
悲しさを表すものであったり、誰かの話し声であったりします。タイトルの後ろに流れているのは「これから何かが起こるよ」と風が囁いているイメージです。風はいろいろな所を巡っているので、孤独な人間の声や、いろいろな言葉を運んで来ます。風の音は友人のように話をしてくれるのです。
○ 映画の中に出てくる手のお守りは何ですか。
宗教のシンボルです。1200~1300年ほど前に非常に悪い王様がいて、シーア派のリーダー・ホセインが、たった70人ほどで王様を倒しに3万人と戦いに行きました。どう考えても負け戦でしたが、悪い王様は倒すべきなので、闘わなければなりませんでした。2つの大きな川のほとりに壁を作られ、みんなは水が飲めなくなりました。ホセインは子供に水を飲ませたいと思い、川に行きました。その時、矢に射抜かれて手が落ちました。その伝説により、“手=水”というシンボルの構図ができたのです。でも、『ダンス・オブ・ダスト』の中で、村の人々は「雨よ、降らないで」と手のお守りに祈ります。イリアは「雨よ、降れ」と祈ります。大勢と一人の少年の願い事のコントラストをより強く出す為に、本来水を祈るべきものに対して、雨が降らない事を祈る村を描いたのです。神様はみんなの願いよりも一人の願いを聞きます。何故なら、神は愛を好むからです。雨が降れば気温が下がり、リムアの熱は下がる。イリアの仕事は無くなり、リムアも去ってしまうけれど、イリアはリムアの病気が治ることを祈ります。煉瓦を踏んでつぶしているのは、犠牲の精神を表しています。
○ 何故セリフのない映画にしたのですか。
幾つか理由はあります。一つに、映像のシンフォニーにしたかったからです。知らない国・言葉でも音楽を感じることはできる。前に日本に来たときに、カラオケに連れて行かれたましたが、歌詞は関係ありませんでした。知らない曲であっても、桜を見て一瞬いい気持ちになれるのと同じです。以前は映像の方が音よりも重要だと思っていました。でもある日、事故の音を聞いて、事故を見に行って以来、映像よりも先に音が来るのだと思うようになりました。また、セリフを無くして映像の強さでピュアな恋を出したかったのです。あと、祈りとは神との会話で、とても個人的な対話です。人に聞かれたくないものなのです。それも、字幕をなくした理由の一つです。
ロカルノ映画祭のディレクターに「タイトルも字幕もなにも入れないで欲しい」と頼んだら、「そんなことをしたら、みんな席を立ってしまうから、挨拶のときにストーリーを話せ」と言われました。でも、「愛のこだまを伝えたかった。僕の映画は普通じゃないかもしれないけれど」としか、挨拶では言いませんでした。ディレクターは怒って、「一緒に出口で観よう。きっと沢山出て行くから」と言い、2人で一緒に出口で観ました。すごく怖かった。席を立ったのは3人でした。終わってから「3人出た」と言うと、「その3人はトイレに行って戻っただけ」と言われ安心しました。イランには「心から出た言葉は心に染み込む」という諺があるのです。
○ 出演者について
私が現場に連れてきた人たちで、実際の季節労働者ではなく、百姓、店員、など様々な職業の素人です。イランの訛りは何を言っているのか分からなくてもちょっと聞けば、大体どこの人だか分かります。私の言っていること(標準的なペルシャ語)は出演者達に伝わっていたようですが、相手の言葉はわかりませんでした。同じ「雨よ、降らないで」も分からないときがありますが、気持ちで分かるのです。見た目でどこの人かもよく見れば大体分かります。イラン国内は、北・・・ヨーロッパ、南・・・黒人、東・・・日本・中国系、西・・・私みたいな感じ、南東・・・パキスタンぽい人 といろんな感じの人たちがいます。映画を無国籍な感じにしたかったのです。
クルド人の多いところでロケをしました。頭がおかしいくらいの人をいつもいいな、と思ってしまいます。英語を話している人はイラク人です。頭がおかしいように見えて、他の人たちよりも進んでいるのではないだろうか、と思っています。
○ 上映禁止についてどう考えていますか。
『ダンス・オブ・ダスト』は他の作品よりもメタフィジックなので上映禁止は本当にストレスになりました。イランで有名な記者の人が居て、その人は子供の頃から足が無く、走ったことがありませんでしたが、「『ダンス・オブ・ダスト』を観て走った気分を味わった、いい気分になった」と言われ、すごく嬉しかったけれども、悲しくもなりました。こうやって映画を通して、人を助けることができるのに、縛られているのが悔しかったのです。
クルド人を使っているから上映が禁止になったわけでは絶対にありません。迷信的な所があるせいで禁止になったのではないかと思います。みんながお祈りしていた手の形のお守り(迷信)を盗む、それが反体制的ととられて上映禁止になったのかもしれません。
『ダンス・オブ・ダスト』はたまたま外国人の友人達にビデオなどで見せていて、ロカルノやベネチアの映画祭から要請が来ていました。海外からのプレッシャーで1998年に映画祭に出すことができたのです。
○ ロケ地・煉瓦について
火・風・土・水の全てがある所を探して撮影しました。神はこの四つを使って全てのものを創ったからです。土と水を混ぜ、風で乾かし、火で焼いて固める煉瓦。煉瓦は濡れると強くなります。井戸に落とされたことでより強くなり、かつ浄化されました。神は人間を土から創りました。人間は死ぬと土に戻ります。その繰り返しです。イスラムの考えで命は終わらないのです。
○ 主人公(イリア)について
土からできているような感じで、声のいい男の子を探しました。Laboで「煉瓦を削ったみたいな子供」と言われ、成功したと思いました。主人公は北東の煉瓦工場で働いていた男の子でした。『ダンス・オブ・ダスト』には、子供でありながらも生活の重さで老いてみえる子が必要だったのです。
○ ヒロイン(リムア)について
ロケハンをしているときに煙突のある町に辿り着きました。私たちを見つけると、ポスターの写真のように丘にのぼって主人公を演じた女の子が「知らない人が来たー!」と叫んだようでした。私には彼女の言葉が分からないので、雰囲気でそう言ったのだと思いました。その子の顔を見ると、お風呂から出たてのような清潔感のある綺麗な顔をしていたので、非常に彼女に惹かれました。それで、この映画のストーリーがほとんど決まったのです。
○ 監督にとって『ダンス・オブ・ダスト』とは。
新しい満ち溢れる愛の物語です。姿・形ではなく、心に恋をした話。その方が心に残るのです。外見の印象はどんどん薄くなって消えてゆきますが、心は日が経つにつれ、もっともっと深くなります。誰かを好きになる、その気持ちを伝える、yes/noは関係ない。愛・尊敬で一生、生きていけるのです。その素敵な気持ち、いい匂いだけで。
『ダンス・オブ・ダスト』には内面的な力があります。ポジティブなエネルギーが得られるはずなので、何度でも見てエネルギーを手に入れて欲しいと思っています。そして見た意見を私に言って欲しいです。
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