フランソワ・トリュフォー監督による、1966年のイギリスの長編SF映画である。
フランソワ・トリュフォー監督は、今日ではヌーヴェルヴァーグの一人として知られている。
<ヌーヴェルヴァーグ>
1950年代末に始まったフランスにおける映画運動のこと。
広義においては、映画制作会社における助監督等の下積み経験無しにデビューした若い監督達による、ロケ撮影中心、同時録音、即興演出などの手法的な共通性のある一連の作家・作品を指す。
狭義においては、映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の主宰者であったアンドレ・バザンの薫陶を受け、同誌で映画批評家として活躍していた若い作家達(カイエ派もしくは右岸派)およびその作品のことを指す。モンパルナス界隈で集っていた者で、主にドキュメンタリー(記録映画)を出自とする面々をことを左岸派と呼び、一般的にはこの両派を合わせてヌーヴェルヴァーグと総称することが多い。
ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)と言う呼称自体は、1957年10月3日付のフランスの週刊誌『レクスプレス』誌にフランソワーズ・ジローが「新しい波来る!」と書き、そのキャッチコピーをその表紙に掲げたことが起源とされる。
しかし、この言葉が用いられる以前から後にヌーヴェルヴァーグ的動向は既に始まっていた。
トリュフォーは1954年1月号の『カイエ』誌に掲載した映画評論「フランス映画のある種の傾向」において、当時のフランス映画界における主流であった *詩的リアリズムの諸作品に対し同様の観点から痛烈な批判を行なった。その論法の激しさからトリュフォーは「フランス映画の墓掘り人」と恐れられたが、これはヌーヴェルヴァーグの事実上の宣言文となった。
一般的にはトリュフォーやルイ・マルなどが過激な論陣を張った1967年のカンヌ映画祭における粉砕事件までを「ヌーヴェルヴァーグの時代」と捉えるのが妥当である。
しかし、即興演出、同時録音、ロケ中心を手法的な特徴とし、瑞々しさや生々しさを作品の特色とする「ヌーヴェルヴァーグの精神」はその後も生き続け、ジャン・ユスターシュやフィリップ・ガレル、ジャン=クロード・ブリソー、ジャック・ドワイヨン、クロード・ミレールらは「カンヌ以降(もしくはほぼ同時期)」に登場し評価を得た作家だが、いずれも「遅れてきたヌーヴェルヴァーグ」との評価を得た。
*(詩的リアリズム)
映画批評家・サドゥールによって提唱された一部のフランス映画の定義。
表現手法としては、大型セットにおけるスタジオ撮影を基本とし、遠近などに関して誇張を行なう場合が多い。
この映画を見て、私は、始めにこの映画のカメラワークがとても好きだと気に入った。
そして、建築や衣装などのデザインがすごく洗練されていて、面白かった。
ストーリーとしては、やや残酷で、過酷であった。
しかし、最後の『本を暗記なさい。そして、その本を焼きなさい。暗記すれば、私たちから本は奪えないのだから』というような台詞を言うことがある。
また、テレビのニュースで主人公、モンターグが追跡されているシーンで、
実際にモンターグが捕まっていないのに、
人々は、すぐ結果を見たい、落ち着きたいのだから、
わざと嘘のビデオ、つまり、モンターグがしとめられる映像をニュースでながしている。
これも、人間の集団心理。を誇張して、
映画の中のコメディー的な部分としてだしていると思った。
全体的に、この作品が気に入った。
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