2009年10月17日土曜日

映画監督『James Marsh』

ジェームズ・マーシュ  (James Marsh 1963/04/30)

出身地 : イギリス/イングランド

レッド・ライディング II :1980 (2009) 監督     
マン・オン・ワイヤー (2008)    監督     
キング 罪の王 (2005)    監督/脚本     
ヤン・シュワンクマイエル短編集 (1965〜1994)

2009年10月16日金曜日

映画監督『李相日』

李相日(イ・サンイル又はリ・サンイル、이상일/리상일、1974年1月6日 - )

日本を拠点に活動する、新潟県出身の映画監督。

新潟県生まれの在日コリアン三世。父は新潟朝鮮初中級学校で教師をしていた。4歳の頃、一家で横浜に移り住み、小学校から高校まで横浜の朝鮮初級学校、中級学校、高級学校に通い、高校3年に進級するまでは野球部に所属した。神奈川大学経済学部卒業間際に、アルバイトでVシネマの製作に参加したのがきっかけとなり、卒業後、日本映画学校に入学。
卒業制作作品『青〜chong〜』がぴあフィルムフェスティバルでグランプリを含む史上初の4部門を独占。その後、数年間フリーの助監督として活動し、シネカノンの李鳳宇が企画・製作した2002 FIFA World Cup Korea/Japanのドキュメンタリー映画では、何台かあるカメラのうちの一台の撮影も担当している。
ぴあスカラシップ作品として制作された『BORDER LINE』で高い評価を得て、原作・村上龍×脚本・宮藤官九郎『69 sixty nine』の監督に抜擢。『スクラップヘブン』の後、『フラガール』で、第80回キネマ旬報ベストテン・邦画第一位及び第30回日本アカデミー賞最優秀作品賞及び文化庁芸術選奨新人賞を受賞。最新作は、『悪人』。

監督作品
「青〜chong〜」 (1999年)
「BORDER LINE」 (2002年)
「69 sixty nine」 (2004年)
「スクラップ・ヘブン」 (2005年)
「フラガール」 (2006年)
「悪人」 (2010年)

2009年10月15日木曜日

映画監督『フランソワ・トリュフォー』




フランソワ・ロラン・トリュフォー(François Roland Truffaut、1932年2月6日 - 1984年10月21日)


フランスの映画監督。ヌーヴェルヴァーグを代表する監督の一人。

パリに生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も親によって感化院に放り込まれるような、親との関係で問題の多い少年だった。1946年には早くも学業を放棄し、映画館に入り浸り、1947年にはシネクラブを組織し始める。そのころ、のちに映画評論誌「カイエ・デュ・シネマ」初代編集長(1951年 - 1958年)となる批評家アンドレ・バザンと出会う。以降バザンが死ぬ(1958年)まで親子同然の生活を送る。バザンの勧めにより映画評論を著すようになり、「カイエ・デュ・シネマ」を中心に先鋭的かつ攻撃的な映画批評を書きまくる。とくに「カイエ」1954年1月号に掲載された『フランス映画のある種の傾向』という一文の厳しい論調故に、当時は「フランス映画の墓掘り人」などと揶揄された。

最初の短編映画を発表したのち、1956年、ロベルト・ロッセリーニの助監督となる。翌1957年、配給会社の社長令嬢と最初の結婚をする。同年、製作会社レ・フィルム・デュ・キャロッス社を設立、二作目の短編映画(『あこがれ』)演出し、翌1958年公開。1959年、キャロッス社とSEDIF(義父の会社コシノールの子会社)の共同製作による処女長編『大人は判ってくれない』を監督し、大ヒット。トリュフォーとヌーヴェルヴァーグの名を一躍高らしめることとなった。トリュフォー自身の体験談を下敷きにして作られた『大人は判ってくれない』は、その後ジャン=ピエール・レオ演ずるアントワーヌ・ドワネルを主人公とする「アントワーヌ・ドワネルの冒険」としてシリーズ化され、『逃げ去る恋』(1978年) に至るまで合計5本制作された。このとき出逢った当時コシノールのマネジャーマルセル・ベルベールは、キャロッス社の大番頭的存在となり、またトリュフォー作品にカメオ出演し続けることになる。
1968年のカンヌ国際映画祭においてはコンテストの必要性の有無を巡って大論争が巻き起こり、トリュフォーはカンヌ国際映画祭粉砕を主張して最も過激な論陣を張った。しかし、この出来事を一つのきっかけに、盟友であったゴダールとの決別を始めとしてヌーヴェルヴァーグの面々と疎遠になり、映画の作風も古典的、正統的な落ち着きを見せ始める。恋愛しか題材として取り扱わないことを含め、若い批評家たちからは「トリュフォーは自分がその地位につくために、ジュリアン・デュヴィヴィエやクロード・オータン=ララ等の古い大作家たちを批判し貶めたのだ」と批判されたが、トリュフォーは「暴力は嫌いだから戦争映画や西部劇は作りたくないし、政治にも興味はないから自分には恋愛映画しか作れない」と一向に意に介することはなかったという。
フランス映画の父として慕い尊敬していたジャン・ルノワールがアメリカで失意の底に沈んでいることを聞きつけ、幾度もアメリカに渡って勇気づけ、ルノワールの死に至るまで両者は親子同然の関係を持ち続けた。また、自分自身の分身を演じ続けたジャン=ピエール・レオに対しても息子同然の扱いをしていたという。その一方でトリュフォー自身は事実上父親を持たず、結婚と離婚を繰り返して安寧な家庭を持てなかった。
1984年10月21日にガンで死去。フランスに留まらぬ世界各国の映画関係者が集う盛大な葬儀が執り行われたが、若かりし頃まるで兄弟ででもあるかのように協力し合って映画を創り上げたゴダールだけは、葬儀にも訪れず、追悼文を著すこともなかった。しかし、のちにゴダールは、死後4年経った1988年に出版されたトリュフォー書簡集に、彼からの手紙を提供した。それは、激しくゴダールを罵倒する語調のものであったが、あらたに書き下ろした序文をこうしめくくっている。「フランソワは死んだかもしれない。わたしは生きているかもしれない。だが、どんな違いがあるというのだろう?」。


主な作品 
監督作品 
  • ある訪問(短編、自主制作) -Une visite(1954年)
  • あこがれ(短編) -Les Mistons(1958年)
  • 水の話(短編)-Une histoire d'eau (共同監督ジャン=リュック・ゴダール、1958年)
  • 大人は判ってくれない -Les Quatre cents coups(1959年)
  • ピアニストを撃て -Tirez sur le pianiste(1960年)
  • 突然炎のごとく -Jules et Jim(1961年)
  • アントワーヌとコレット/二十歳の恋 -L'Amour à vingt ans / Antoine et colette(1962年)『二十歳の恋』の一篇
  • 柔らかい肌 -La Peau douce(1964年)
  • 黒衣の花嫁 -La Mariée était en noir(1968年)
  • 夜霧の恋人たち -Baisers volés(1968年)
  • 暗くなるまでこの恋を -La Sirène du Mississipi(1969年)
  • 野性の少年 -L'Enfant sauvage(1970年)
  • 家庭 -Domicile conjugal(1970年)
  • 恋のエチュード -Les Deux anglaises et le continent(1971年)
  • 私のように美しい娘 -Une belle fille comme moi(1972年)
  • アメリカの夜 -La Nuit américaine(1973年)
  • アデルの恋の物語 - L'Histoire d'Adèle H.(1975年)
  • トリュフォーの思春期 -L'Argent de poche(1976年)
  • 恋愛日記 -L'Homme qui aimait les femmes(1977年)
  • 緑色の部屋 -La Chambre verte(1978年)
  • 逃げ去る恋 -L'Amour en fuite(1979年)
  • 終電車 -Le Dernier métro(1980年)
  • 隣の女 -La Femme d'à côté(1981年)
  • 日曜日が待ち遠しい! -Vivement dimanche!(1983年)


出演作品 
王手飛車取り - Le Coup du berger (1956年)
野性の少年 -L'Enfant sauvage(1970年) イタール博士役
アメリカの夜 -La Nuit américaine(1973年) フェラン監督役
アデルの恋の物語 - L'Histoire d'Adèle H.(1975年) 士官役
未知との遭遇 - Close Encounters of the Third Kind (1977年) フランス人科学者ラコーム役
緑色の部屋 -La Chambre verte(1978年)

主な受賞 
セザール賞

1980年 監督賞『終電車』
1980年 脚本賞『終電車』
カンヌ国際映画祭
1959年 監督賞『大人は判ってくれない』
1959年 国際カトリック映画事務局賞『大人は判ってくれない』
英国アカデミー賞
1973年 監督賞『アメリカの夜』
全米批評家協会賞
1969年 監督賞『夜霧の恋人たち』
1973年 監督賞『アメリカの夜』
ニューヨーク批評家協会賞
1973年 監督賞『アメリカの夜』
1975年 脚本賞『アデルの恋の物語』
ロサンゼルス批評家協会賞
1984年 特別賞



2009年10月14日水曜日

映画監督『パーヴェル・ルンギン』

 パーヴェル・ルンギン
(Pavel Lungin,ロシア語:Павел Семёнович Лунгин,1949年7月12日 - )

ソ連・モスクワ出身の映画監督。

父親のシモン・ルンギンは脚本家。
1990年の『タクシー・ブルース』でカンヌ国際映画祭 監督賞を受賞。

主な監督作品
   タクシー・ブルース Taksi-Blyuz (1990)
   ラヴィアン・ローズ Ligne de vie (1996)
   ラフマニノフ ある愛の調べ Lilacs (2007) 

2009年10月13日火曜日

映画監督『ジェームズ・キャメロン』

ジェームズ・フランシス・キャメロン(James Francis Cameron, 1954年8月16日 - )
カナダ出身の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。左利き。身長188cm。


生い立ち
カナダのオンタリオ州カプスカシング生まれ。父は電気技師、母はアマチュア画家[1]。幼い頃から母に芸術面を応援され、美術には才能を見せていた。15歳の時に、『2001年宇宙の旅』を見て、自作の宇宙船やプラモデルを使い、16ミリカメラなどで実験映画を撮り始める(『2001年宇宙の旅』は映画館で10回も見たという)。カリフォルニア州オレンジ・カウンティに移り、カリフォルニア州立大学フラトン校に入学。当初は海洋生物学と物理学を専攻していたが、トップになるには数学の能力に欠けていることを知り、英文学に変更する。

大学中退後
2年後、大学を中退し、惚れ込んだ地元のカフェのウェイトレスと結婚、小さな家に移り住む。トラック運転手などをしていたが[2]、1977年に封切られた『スター・ウォーズ』を見て仕事を辞め、再び映画制作に没頭する。そして友人と共に1978年、35ミリの短編SF『Xenogenesis』を制作する。この短編がきっかけとなりロジャー・コーマンのニュー・ワールド・ピクチャーズに入る。

監督デビュー
いくつかの作品を手伝ったのち、『殺人魚フライングキラー』を監督するが、周囲の無理解と低予算に苦しめられ、作品も不本意なかたちで上映されてしまう。しかし、失意のどん底で作り上げた低予算のSFアクション映画『ターミネーター』が世界中で好ヒットを記録。世界の映画ファンにその存在を知られることになる。その後、『ターミネーター』のヒットを受けて制作を依頼された『エイリアン2』が、また大成功を収め、全世界で1億8000万ドルの興行収入をあげる。途中、深海を舞台にしたSF映画『アビス』で不振に悩まされるも、1991年、自身が監督した映画『ターミネーター』の続編『ターミネーター2』が大ヒットして、全世界で5億6000万ドルの興行収入をあげる。
さらに1997年、アカデミー賞11部門を受賞し、自身もアカデミー監督賞を受賞した『タイタニック』が世界映画史に残る大ヒットを記録。2009年には12年振りの劇場用監督作品となる3D映画『アバター』でその興業収益記録を自ら更新する事になった。全世界の歴代興行収入、そしてアメリカ国内の歴代興行収入は1位が『アバター』、2位が『タイタニック』となり、同じ監督による1位2位という偉業を成し遂げた。
2010年にイギリスの『ガーディアン』誌が選ぶ「ハリウッドで最も影響力のある人物」で第1位となる。また、2010年内に2億5700万ドル稼いだとされ、同年最も稼いだ映画関係者ランキングで第1位となった。
1990年代前半に、制作会社ライトストーム・エンターテインメントとSFX会社デジタル・ドメインを設立。

私生活
プロデューサーのゲイル・アン・ハードと1985年に結婚、1989年に離婚。直後にキャスリン・ビグローと1989年に結婚、1991年に離婚。リンダ・ハミルトンと1997年に結婚、1999年に離婚。スージー・エイミスと2000年6月に結婚。

特徴
この節には「独自研究」に基づいた記述が含まれているおそれがあります。信頼可能な解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。このタグは2009年7月に貼り付けられました。
概要
基本的にはスケールの大きな映画を構想し、大ヒットに導く実力を持ったアクション映画畑の監督であるが、その演出はところどころで映画的なエロスを湛え、また、いずれの作品も母性の賞揚をストーリーの原動力にしている節も見受けられる。自分の撮影した作品に関して完璧主義として知られ、前述の不本意な作品である『殺人魚フライングキラー』については、インタビューで話題に出すのもNGと言われるほどに嫌っているという説があるが、自身のドキュメンタリー番組や評伝の中ではごく詳細に語っている。

リアリズムの追求
特筆すべき彼の特徴として徹底してリアリズムを追求する点が挙げられる。『タイタニック』では、巨大な船のセットを岸壁から見て右になるように作ったが、史実では岸壁から見て左であり、その点を解消するためにセットの文字を全て反転させ、最後に映像を反転させて史実に倣うよう編集した。

ミリタリーマニア
SF、潜水などと同様作品に反映されているキャメロンの趣向の一つに「ミリタリーマニア」がある。『ターミネーター』では銃砲店での店主とのやりとりや改造の仕方などを緻密に描写し、脚本を担当した『ランボー/怒りの脱出』の銃器描写もマニアをうならせた。映画撮影にも精通したキャメロンらしく『エイリアン2』では海兵隊の装備として当時実在した銃器をモデルにパルスライフルを考案したり、ステディカムの振動吸収器にM56A2スマートガン(射撃者が見た物を装着したアイウェアで識別し、照準を微調整する)を搭載した射撃システムを登場させている。

脚本家
映画作品では基本的に脚本も自ら手掛けており、「後の監督としての苦労を考慮すると創作の幅を狭める事になるため、その部分を押し殺して自由奔放にストーリーに没頭する」と語っている。また画力にも優れており、『ターミネーター』のエンドスケルトン(内骨格)や殺人ロボットHK、『エイリアン2』のエイリアンクイーンやパワーローダーなどのコンセプトデザインを自ら手掛けた他、『タイタニック』に登場する主人公ジャックのスケッチもキャメロンの筆による物である。

環境問題
環境問題に熱心に取り組んでおり、世界15か国にそれぞれ100万本の木を植えることを企画している。2010年4月、ブラジルのアマゾンに計画中のベロモンテ水力発電ダムの建設反対運動に参加した。2010年6月には米連邦当局からの依頼を受け、4月20日に起きたメキシコ湾原油流出事故を解決するための会議に出席した。
その他
近年は考古学に強い関心を示しており、いくつかの非常に奇抜な学説を提唱している。


作品

映画
年 作品名 クレジット 備考


  • 1978 Xenogenesis 監督、脚本、製作 短編映画
  • 1982 殺人魚フライングキラー Piranha II: The Spawning 監督 『ピラニア』の続編
  • 1984 ターミネーター The Terminator 監督、脚本 
  • 1985 ランボー/怒りの脱出 Rambo: First Blood Part II 脚本 ジョージ・P・コスマトス監督作品
  • 1986 エイリアン2 Aliens 監督、脚本 『エイリアン』の続編 ディレクターズカットあり
  • 1989 アビス The Abyss 監督、脚本 ディレクターズカットあり
  • 1991 ハートブルー Point Break 製作総指揮 キャスリン・ビグロー監督作品
  • 1991 ターミネーター2 Terminator 2: Judgment Day 監督、脚本、製作 『ターミネーター』の続編 ディレクターズカットあり
  • 1994 トゥルーライズ True Lies 監督、脚本、製作 
  • 1995 ストレンジ・デイズ/1999年12月31日 Strange Days 脚本、原案、製作 キャスリン・ビグロー監督作品
  • 1997 タイタニック Titanic 監督、脚本、製作、編集 
  • 2002 ソラリス Solaris 製作 スティーブン・ソダーバーグ監督作品
  • 2003 ジェームズ・キャメロンのタイタニックの秘密 Ghosts of the Abyss 監督、脚本、出演 ドキュメンタリー映画
  • 2003 海底火山の謎 Volcanoes of the Deep Sea 製作総指揮 ドキュメンタリー映画 スティーヴン・ロウ監督作品
  • 2003 ターミネーター3 Terminator 3: Rise of the Machines キャラクター創造 ジョナサン・モストウ監督作品『ターミネーター2』の続編
  • 2005 エイリアンズ・オブ・ザ・ディープ
  • Aliens of the Deep 監督、製作、撮影、出演 ドキュメンタリー映画
  • 2009 ターミネーター4 Terminator Salvation キャラクター創造 マックG監督作品 『ターミネーター3』の続編
  • 2009 アバター Avatar 監督、脚本、製作、編集 ディレクターズカットあり
  • 2011 サンクタム Sanctum 製作 アリスター・グリアソン監督作品



テレビドラマ
放送年 作品名 クレジット 備考
2000-2002 ダーク・エンジェル
Dark Angel 企画、脚本、製作総指揮

企画中の作品
原爆をテーマにした作品
2010年現在、原爆をテーマにした作品について考えている。この作品のために2009年のクリマスマス前に来日し、長崎市の病院に入院する山口彊に面会した。山口は広島と長崎で被爆した「二重被爆者」であり、キャメロンは今しか対談する機会が無いと面会を望んだという。キャメロンは山口のような体験をした人を後世に伝えるべく、山口に原爆をテーマにした映画について語ったとのこと。 後の毎日新聞による取材で、山口は "この映画を作るのは彼らの使命だ" と期待していることを語った。
この映画のタイトルは未定だが、仮題として『Jigoku』というのが発表されている。しかし、この作品について、チャールズ・ペレグリーノによる原作の中に、関係者からの証言が虚偽だったことによる誤りが多数見つかったことや、手記を盗用していたこと、広島への原爆投下を扱った漫画・『はだしのゲン』からの引用があったにもかかわらず、作者の中沢啓治に連絡を入れていなかったことなどが判明し、構想が揺れている状態である。

『アバター』の続編
キャメロンは『アバター』公開直後より「ヒットすれば、続編は絶対に作る」、「3作目までのアウトラインは考えている」と語っており、また、同映画の編集技師が「配給会社も続編を制作させようとプレッシャーをかけている」と述べた。2010年10月27日、20世紀フォックスにより製作が正式に決定したことが発表された。監督、脚本、製作は引き続いてキャメロンが務め、第2作目が2014年、第3作目はその1年後の2015年のクリスマスに公開される予定である。2011年1月時点でキャメロンは続編2作分の脚本を執筆中であり、同年内の撮影開始を目指している。
Battle Ange
木城ゆきとのSF漫画『銃夢』を原作とした実写映画 Battle Angel を製作する予定である。当初キャメロンは、『アバター』の続編で多忙となるために他の監督に依頼することも検討したが、原作の世界観を気に入った彼はこの企画は誰にも委ねられないと考え、2011年2月、自ら監督することを宣言した。原作全9巻のうち、第4巻までがストーリーの中心となる予定である。
『ミクロの決死圏』のリメイク
キャメロンのライトストーム・エンターテインメントが製作するリメイク版『ミクロの決死圏』には製作総指揮として参加する。当初監督はローランド・エメリッヒに決まったが降板し、その後ポール・グリーングラス、ダーレン・アロノフスキー、ティムール・ベクマンベトフ、ジョナサン・モストウ、ルイ・ルテリエらが候補に挙がったがいずれも諸事情により起用できず、最終的にショーン・レヴィに決定した。同作品では『アバター』の製作総指揮を務めたレータ・カログリディスが脚本をリライトする予定である。

『トゥルーライズ』のテレビドラマ
キャメロンが1994年に監督、脚本した映画『トゥルーライズ』のテレビドラマ版をライトストームエンターテイメントと20世紀フォックステレビジョンが共同で制作する予定である。キャメロンが製作総指揮を務め、パイロットの原案はレネ・エシェヴァリアが担当する。

2009年10月12日月曜日

映画監督『リチャード・アッテンボロー』

リチャード・アッテンボロー CBE(Richard Samuel Attenborough /Baron Attenborough CBE, 1923年8月29日 - )

イギリスのイングランド・ケンブリッジ生まれの映画監督・映画プロデューサー・俳優。動物学者でプロデューサーのデイビッド・アッテンボローの長兄にあたる。



来歴
ロンドンの王立演劇学校で学び、1942年にデビュー。『大脱走』などの脇役で知られるようになるが、1960年代からは監督業・プロデュース業にも乗り出し、1982年に監督した『ガンジー』ではアカデミー監督賞を受賞した。近年では『ジュラシック・パーク』の実業家ジョン・ハモンド役が記憶に新しい。
教育にも関心を持っており、国際的な教育組織UWCの重要な後援者の一人でもある。UWC南アフリカ校での複数の学校施設の創設に貢献している。また映画『遠い夜明け』は、UWC南アフリカ校の影響も受けて製作されたと言われる。
1945年1月22日に女優のシーラ・シムと結婚し、現在までに3人の子供をもうけている。
1967年に大英帝国勲章を授与された。1976年にはナイトの称号を受け、1993年には一代貴族ともなっている。
2002年10月には、英国映画協会内に創設された「チャップリン研究財団」の初代総裁に就任している。
2004年12月26日、タイ王国のプーケットで休暇中だった親族がインドネシア・スマトラ島大震災・大津波の津波で被災した。この事故で、アッテンボローの長女ジェーンの次女、ルーシー(当時14歳)が死亡したほか、ジェーン本人とその同名の義母ジェーン・ホーランドが行方不明。また、ジェーンの長女アリス(当時17歳)が負傷。夫のマイケル・ホーランド、長男のサムは無事とされている。


作品

出演作品

  • イン・ウィッチ・ウィ・サーヴ In Which We Serve (1942年)
  • ブライトン・ロック Brighton Rock (1947年) - 1998年英国映画協会発表のベスト100の映画で15位
  • 紳士同盟 The League of Gentlemen (1960年)
  • 大脱走 The Great Escape (1963年)
  • 飛べ!フェニックス The Flight of the Phoenix (1965年)
  • 10番街の殺人 10 Rillington Place (1971年)
  • ジュラシック・パーク Jurassic Park (1993年)
  • 34丁目の奇跡 Miracle on 34th Street (1994年)
  • ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク The Lost World: Jurassic Park (1997年)
  • エリザベス Elizabeth (1998)


監督作品

  • 素晴らしき戦争 Oh! What A Lovely War (1969年)
  • 戦争と冒険 Young Winston (1972年)
  • 遠すぎた橋 A Bridge Too Far (1977年)
  • マジック Magic (1978年)
  • ガンジー Gandhi (1982年) 兼製作
  • コーラスライン A Chorus Line (1985年)
  • 遠い夜明け Cry Freedom (1987年) 兼製作
  • チャーリー Chaplin (1992年) 兼製作
  • 永遠の愛に生きて Shadowlands (1993年) 兼製作
  • ラブ・アンド・ウォー In Love and War (1996年) 兼製作
  • グレイ・オウル Grey Owl (1999年)
  • あの日の指輪を待つきみへ Closing the Ring (2007年) 兼製作


2009年10月11日日曜日

映画監督『ジャン=リュック・ゴダール』

ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard, 1930年12月3日 - )

フランス・スイスの映画監督、編集技師、映画プロデューサー、映画批評家、撮影監督、俳優である。パリに生まれる。ソルボンヌ大学中退。ヌーヴェルヴァーグの旗手。


1930年代 - 1950年代
1930年12月3日、フランス・パリに生まれる。フランス人の銀行家を父に、スイス人を母に持つ二重国籍者である。子供時代をスイス・ヴォー州ニヨンで過ごす。
1948年、両親の離婚によりパリへ戻り、リセ・ロメール校に編入、その後ソルボンヌ大学に進学(のちに中退)。またこの年、モーリス・シェレール(エリック・ロメール)の主催する「シネクラブ・デュ・カルティエ・ラタン」に参加、ジャック・リヴェット、フランソワ・トリュフォー、ジャン・ドマルキらと出会う。
1949年、ジャン・コクトー、アンドレ・バザン主催「呪われた映画祭」に参加。
1950年5月、モーリス・シェレール編集『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』創刊(同年11月廃刊)、執筆参加(ハンス・リュカス名義)。またこの年、ジャック・リヴェットの習作短編第2作『ル・カドリーユ』に主演する。
1951年4月、アンドレ・バザン編集『カイエ・デュ・シネマ』創刊、のちに執筆に参加。また同年エリック・ロメールの習作短編第2作『紹介、またはシャルロットとステーキ』に主演する。
1954年、習作短編第1作『コンクリート作業』を脚本・監督。1958年までにトリュフォーとの共同監督作品『水の話』を含めた数本の短編を撮る。
1959年、ジョルジュ・ド・ボールガール製作『勝手にしやがれ』で長編映画デビュー。翌1960年公開され、ジャン・ヴィゴ賞、ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞。

1960年代
1961年、長編第2作『小さな兵隊』に主演女優として出演したアンナ・カリーナと結婚。『女は女である』でベルリン国際映画祭銀熊賞受賞。
1964年、アンナ・カリーナと独立プロダクション「アヌーシュカ・フィルム」( - 1972年)設立。設立第1作は『はなればなれに』。
1965年、『気狂いピエロ』発表。『アルファヴィル』でベルリン国際映画祭金熊賞受賞。同年、アンナ・カリーナと離婚。
1967年7月22日、『中国女』に主演したアンヌ・ヴィアゼムスキーと結婚( - 1979年離婚)。
1967年8月、商業映画との決別宣言文を発表。
1968年5月、五月革命のさなかの第21回カンヌ国際映画祭に、映画監督フランソワ・トリュフォー、クロード・ルルーシュ、ルイ・マルらとともに乗りこみ各賞選出を中止に追い込む。同年、ジャン=ピエール・ゴランらと「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成( - 1972年解散)、匿名性のもとに映画の集団製作を行う。

1970年代
1971年、バイク事故に遭う。
1972年、左翼俳優イヴ・モンタンとジェーン・フォンダを主役に、ジャン=ピエール・ラッサム製作、仏伊合作『万事快調』をジガ・ヴェルトフ集団として撮る。本作にスチルカメラマンとして参加したアンヌ=マリー・ミエヴィルと出逢い、製作会社「ソニマージュ」を設立( - 1982年)、『ジェーンへの手紙』を同社で製作、完成をもってジガ・ヴェルトフ集団を解散。
1973年、ミエヴィルとともに拠点をパリからグルノーブルに移す。
1974年、ミエヴィルとの脚本共同執筆第1作『パート2』を監督。以降、ミエヴィルとの共同作業でビデオ映画を数本手がける。
1979年、ミエヴィルとともに拠点をグルノーブルからスイス・ヴォー州ロールに移し、アラン・サルド製作による『勝手に逃げろ/人生』で商業映画への復帰を果たす。製作会社「JLGフィルム」を設立( - 1998年)。

1980年代
1982年、『パッション』を脚本・監督。「ソニマージュ」社は「JLGフィルム」社らと本作を共同製作したのちに活動停止。
1983年、『カルメンという名の女』により第40回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得。
1987年、『右側に気をつけろ』によりルイ・デリュック賞を受賞。
1989年、『ゴダールの映画史』の第1章と第2章とを発表。

1990年代
1990年、「JLGフィルム」社が『映画史』以外の活動を停止するにともない、ミエヴィルとの新会社「ペリフェリア」を設立。
1998年、『映画史』の最終章である第4章を発表。

2000年代
2002年、日本の高松宮殿下記念世界文化賞受賞。
2006年、パリのポンピドゥー・センターで初の個展が開かれる。同会場での上映のための映画『偽造旅券』(Vrai-faux passeport)を製作・脚本・監督。


人と作品
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ゴダールの映画に対する姿勢や根本的な作風は、パートナーや、大まかな作風の傾向により、便宜的に前期・中期・後期の3期に分類することができる。

前期:ヌーヴェルヴァーグの時代
1954年 - 1967年 『コンクリート作業』 - 『ウイークエンド』
シネフィルとして数多くの映画に接していた若かりし日のゴダールは、シネマテーク・フランセーズに集っていた面々(フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、エリック・ロメール、ジャン=マリ・ストローブ等)と親交を深めると共に、彼らの兄貴分的な存在だったアンドレ・バザンの知己を得て彼が主宰する映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』に批評文を投稿するようになっていた。すなわちゴダールは、他のヌーヴェルヴァーグの面々、いわゆる「カイエ派」がそうであったように批評家として映画と関わることから始めたのだった。
数編の短編映画を手掛けた後、先に映画を制作して商業的な成功も収めたクロード・シャブロル(『美しきセルジュ』『いとこ同志』)やフランソワ・トリュフォー(『大人は判ってくれない』)のように、受け取る遺産も、大手配給会社社長の岳父もいないゴダールは、プロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールと出会うことで、長編処女作『勝手にしやがれ』でやっとデビューできた。公開されるや、一躍スターダムにのし上がる。ジャン=ポール・ベルモンドが演ずる無軌道な若者の刹那的な生き様という話題性のあるテーマもさることながら、即興演出、同時録音、自然光を生かすためのロケーション中心の撮影など、ヌーヴェルヴァーグ作品の特徴を踏襲しつつも、物語のスムーズな語りをも疎外するほどの大胆な編集術(ジャンプカット)とそこから醸し出される独自性とが非常に評価されたのだった。
ジーン・セバーグが演じた主演女優には、ゴダールは当初は片思い状態で思慕していたアンナ・カリーナを想定していたが、本人の拒絶によりこのことは実現しなかった。しかし『勝手にしやがれ』の成功を背景としてカリーナとの関係は親密なものとなり、1961年に結婚。以降アンナ・カリーナは前期におけるゴダール作品の多くの主演女優を務めることになる。
長編第2作である『小さな兵隊』以降、1967年の『ウイークエンド』を1つの頂点として商業映画との決別を宣言する中期に至るまで、1年に平均2作程度という比較的多作なペースで作品を制作し続けるが、多分にスキャンダラスな物語設定や扇情的な数々の発言により、大ヒットとは言えないまでもコンスタントなヒットを続け、ゴダールは名実ともにヌーヴェルヴァーグの旗手としての立場を固めていった。
前期のゴダール作品は、ヌーヴェルヴァーグの基本3要素(即興演出、同時録音、ロケ撮影中心)とはっきりとしない物語の運び以外には、一見すると共通項の少ない多彩な作品群となっている。題材もアルジェリア戦争(『小さな兵隊』)、団地売春の実態(『彼女について私が知っている二、三の事柄』、1966年)、SF仕立てのハードボイルド(『アルファヴィル』、1965年)と広範囲に及んでおり、ほぼ一貫して男女の恋愛劇を描き続けたトリュフォーと比べるとその多彩さは明らかである。
またカメラワークやフレーミングといった映画の技術的/話法的な要素についても、1作ごとに場合によっては同じ作品の中でも異なったトーンが用いられており、この多彩さこそが前期ゴダールの特長であると言えよう。しかし、別な観点から見るならこれらの作品は、「分断と再構築」という2つの機軸によって構成されている[要出典]という点においてはある種の統一感で貫かれており、事実、表面的な作風が異なる中期や後期に至るまで「分断と再構築」こそがゴダール作品の基底を成している。また、前期においては「映画内映画」の要素を積極的に取り入れていたことも大きな特徴となっている。『軽蔑』(1963年)のように映画の制作自体を作品としたものから、『気狂いピエロ』(1965年)における主演のジャン=ポール・ベルモンドがスクリーンを見ている観客自身に語りかけるような話法に至るまで、様々な「映画内映画」の要素が盛り込まれ、こうしたメタ映画的な構成の目新しさもゴダール人気を煽る一因となっており[要出典]、一時ゴダール風と言えば映画の「内」と「外」とを意識的に混在させる手法と受け取られたことすらあった[要出典]ほどである。しかし、一般的にはファッションとして受け取られることが多かった[要出典]メタ映画の構造も「分断と再構築」と並んでゴダール(作品)の根本的に重要な要素であり、後期においてそれが更に深化されることになる。
ジャン=ポール・ベルモンドの爆死をクライマックスとする『気狂いピエロ』の大ヒット以降、パリ五月革命に向かって騒然とし始めた世相を背景に、ゴダールの作品は政治的な色合いを強めていく。『小さな兵隊』がアルジェリア戦争を揶揄してのものであったことからもわかる通り、ゴダールは初期のころから政治に対する志向が強く、政治的なテーマや題材をあまり取り上げることがなかった他のヌーヴェルヴァーグの作家たちとはこの点においては一線を画していた。

中期:商業映画との絶縁・政治の時代
1967年 - 1978年 『たのしい知識』 - 『うまくいってる?』
1967年8月に、ゴダールはアメリカ映画が世界を席巻し君臨することを強く批判すると同時に、自らの商業映画との決別宣言文を発表した。
「われわれもまた、ささやかな陣営において、ハリウッド、チネチタ、モスフィルム、パインウッド等の巨大な帝国の真ん中に、第二・第三のヴェトナムを作り出さねばならない。 そして、経済的にも美学的にも、すなわち二つの戦線に拠って戦いつつ、国民的な、自由な、兄弟であり、同志であり、友であるような映画を創造しなくてはならない。」

– ゴダール、『ゴダール全集』4巻(1968年刊)

パリ五月革命の予言もしくは先取りであるなどと言われる、マオイズムをテーマとして取り上げた『中国女』(1967年)において既に政治的な表現の傾向が顕著になっていたが、ゴダールを本当の「政治の時代」へと踏み入らせる直接のきっかけとなったのは1968年の第21回カンヌ国際映画祭における「カンヌ国際映画祭粉砕事件」だった。コンテストの必要性の有無を巡る論争を契機として発生したこの事件においては、トリュフォーとルイ・マルとが最も戦闘的な論陣を張り、ゴダールの関与は必ずしも積極的なものではなかった[要出典]。しかし、この事件をきっかけとしてゴダールの周囲や各々の政治的な立場・主張に亀裂が入り、作家同士が蜜月関係にあったヌーヴェルヴァーグ時代も事実上の終わりを告げるに至った。プライベートにおいても女優アンナ・カリーナと1965年に破局が決定的になり、『中国女』への出演を機に1967年にアンヌ・ヴィアゼムスキーがゴダールの新たなるパートナーとなった。この後『ウイークエンド』(1967年)を最後に商業映画との決別を宣言し『勝手に逃げろ/人生』(1979年)で商業映画に復帰するまで、政治的メッセージ発信の媒体としての作品制作を行うようになる。
また商業映画への決別と同じタイミングで、自身が商業的な価値を持たせてしまった「ジャン=リュック・ゴダール」の署名を捨てて、「ジガ・ヴェルトフ集団」を名乗って活動を行う(1968年 - 1972年)。ソビエトの映画作家ジガ・ヴェルトフの名を戴いたこのグループは、ゴダールとマオイストの政治活動家であったジャン=ピエール・ゴランを中心とした映画製作集団であり、この時期のパートナーであるアンヌ・ヴィアゼムスキーもメンバーとして活動に加わった。反商業映画イコール政治映画という図式で語られがちであるが、この時期のゴダールの政治的な映画といってもそれは旧来の政治的プロパガンダの映画とはまるで違い、映画的思考というものの変革を信じ、目指した彼にとって極めて純粋な映画運動であった。1972年、『ジェーンへの手紙』完成をもって同グループは解散、ゴダールはアンヌ=マリー・ミエヴィルとのパートナーシップ体制に入る。
かつて、映画の父エイゼンシュタインは、映画は概念を表現することが出来るものであり「資本論」の映画化さえも可能であるといった。この時期のゴダールはそれを実践するために邁進したともいえる。
1作品ごとに、現代の社会と人間の真実の姿に迫ろうと試み続けてきたゴダールは、ヌーヴェルヴァーグ時代の後期あたりの映画作品からは1作ごとに彼の作品から、いわゆる娯楽性を薄皮一枚ずつ剥ぎ取り、また一般的な芸術性をも剥ぎ取ることでギリギリまで思考を明確にする映画を目指していった[要出典]。その結果、映画は極めて政治的な思想的闘争宣言の表現の場へと異化していく。もはや、同志的な観客のための映画でしかなく、不特定な多数の観客の存在を考慮しない告発の映画であった。事実、彼は一般商業映画館での作品を上映する事ですら、『体制に順応している』として強固に否定するような立場まですすんでいった。
前期のゴダールが一言で言えば躍動感と瑞々しさとを特徴とするのに対し、中期のゴダール作品は映画を政治的なメッセージ発信の手段にした為、映像表現は禍々しいものへと変化していった。前期においても文字や書物からの引用は行われていたが中期においてはそれが更に顕著なものになり、膨大な映像の断片と文字、引用(スローガン、台詞、ナレーション)とが目まぐるしく洪水のようにあふれ、詰込まれた作風が特徴とされる。しかし、中期においてもゴダールは映画を単なるメッセージ発信のための手段として利用するのではなく、映画で何が可能なのか、そして何が不可能なのかを自省しつつ作品を作り続けていた。例えば中期の皮切り作品と言えるオムニバス映画『ベトナムから遠く離れて』(1967年)において、クロード・ルルーシュを始めとする他の監督たちがデモのドキュメンタリーや反戦活動家のメッセージといった直接的な反戦運動を取り上げていたのに対し、ゴダールはパリにおいてカメラを操作する自分自身をカメラに捉え、ベトナムに関する映画を制作することに関する自問自答を延々と撮し続けている。
ローリング・ストーンズが出演し、アルバム『ベガーズ・バンケット』のレコーディング風景が収録されたことで多くの話題を呼んだ『ワン・プラス・ワン』(1968年)においても、様々な場面や場所で多様な人が政治的なメッセージを読み上げるシーンと、試行錯誤しているストーンズのリハーサルシーンとを交互に重ね合わせることにより、当時の政治的な状況を、メッセージとしてではなく映画作品として具体的に体現(再現)する実験を試みている。なお、この映画は本来ならレコーディングは完了せずに終る予定であり、未完であることにこそ本質的な意味があるとゴダールは考えていたのであるが、制作者側の商業的な意図により作品の最後で完成した「悪魔を憐れむ歌」が挿入されてしまった。ゴダールが激怒したのは言うまでもない。この作品はゴダールが活動資金稼ぎを目的として制作されたもので、中期に位置するものの商業映画(イギリス資本)としてゴダールの署名で制作されている。

後期1:『映画史』以前
1979年 - 1987年 『勝手に逃げろ/人生』 - 『ゴダールのリア王』
『勝手に逃げろ/人生』(1979年)で商業映画への復帰を果たしてから以降今日に至るまでが後期に相当するが、後期においてもおおよそ1980年代に相当する「『映画史』以前」と1980年代末から1998年『映画史』の完成に至るまでの「『映画史』の時代」、さらにこれ以降今日に至るまでの「『映画史』以降」に区分けすることができる。
「『映画史』以前」の作品群は、ゴダールの作品の中でも最も馴染みやすいものであると言える。他の時期に比べ物語の筋立てがある程度わかりやすいものになっているし、ゴダールの造形的な才能がいかんなく発揮された美しい映像が惜しむことなく展開されているからだ。トリュフォーをして「彼こそが本物の天才だ」と言わしめたゴダールの映画的なセンスは衆目が認めるものではあったが、前期や中期においてはその期待を敢えて裏切るように画面の審美性から遠離った画作りをすることが少なくなかった。もちろんわざと汚い画面、あるいは粗雑なカメラワークやフレーミングを行った訳ではないだろうが、審美性だけで鑑賞される作品は、ゴダールの映画に対する基本的な姿勢とは相反するものであり、審美性、つまり構図やら画面における構成要素の配置の美しさやらに留まらない、映画としての美しさと価値とを様々な観点から追求し続けていたと言えよう。
しかし、後期においてはこうしたカメラワークとフレーミングにおける実験的な要素は影を潜め、メタ映画レベルの挑戦が主軸に位置されるようになる。その集大成が「映画そのものについて映画で思考し映画で表現する作品」である『映画史』であろうが、実際に『映画史』の制作に着手する前の1980年代は、そこに至るまでの試行錯誤の中間地点であると言えるだろう。
試行錯誤とは言ってもそれはゴダールの内的な経緯における話であって、実際にできあがった作品は一般的な意味において完成度の高い、多くの人に対して広く門戸が開かれた作品であると言える。ただし、これはゴダールの作品の中では比較的という注釈付きの表現であり、「分断と再構築」を基本とする作風に根本的な変化はない。むしろ「分断」に関しては「政治の時代」をくぐり抜けたことにより一層の磨きがかかっており、全体の構成や物語の把握のしやすさに関しては前期よりもむしろ困難になっている。しかしこれは今日のハリウッド映画に接するのと同じような姿勢で作品に臨むことを前提とした場合、すなわちまるでベルトコンベアに運ばれるように丁寧で親切なヒントやら手がかり、さらには解答まで準備されたものを受動的に受け取ることを前提とした場合に言えることであり、自分自身で能動的に作品を構築する姿勢で作品に臨むなら、ゴダール作品の「分断と再構築」を基本とする作品構造は、他に比類のない程の確かな手応えを与えてくれるだろう。
一方「『映画史』以前」の段階では、「『映画史』の時代」で大々的に用いられることになるテキストや音楽、音声の「分断と再構築」は、余り積極的には用いられてはいない。クラシック音楽が基調となっているという点では後期全般に同一の傾向が認められはするものの、「以前」の段階ではまだBGMは画面を彩るものとして活用されており、音声やテキストの多重化は限定的なものだ。従ってこの時点において観客が行うべき再構築の大半は映像的な要素となっている。
しかし、実はその発端は『映画史』の制作着手よりも10年近く前に制作された『フレディ・ビュアシュへの手紙』(1981年)にある。これはローザンヌ市の市制500年を記念して市からの依頼に基づいて制作された作品で、映画を制作すること自体を、記念映画を制作することに関するゴダールの内省をフィルム化した内省録風の作品で、何かについて語った映画ではなく、語ることそのものあるいは「について」と言うこと自体を対象としたメタ構造を持つ作品だった。確かに上述の通り前期においても既にメタ映画的な要素は活用されてはいるが、その時点においては部分ないしは要素あるいは作品に対する味付けとして用いられていたに過ぎない。これに対し『フレディ・ビュアシュへの手紙』は、メタ要素そのものが対象となっているという点で新しく、その後に続く作品の道筋が提示されていたと言えよう。また『フレディ・ビュアシュへの手紙』においては語る私(=ゴダール)の直接的な登場や文字(テキスト)の活用など『映画史』以降を構成する基本要素がいくつも提示されていた。

後期2:『映画史』の時代
1988年 - 1998年 『ゴダールの映画史』(『言葉の力』 - 『オールド・プレイス』)
1989年に第1章と第2章が発表され、1998年に第4章の完成をもって完結する『映画史』的なものが中心となるのが、「『映画史』の時代」だ。ここにおいて「分断と再構築」の構造は更に深化を遂げ、映像、声(台詞)、テキスト、そして音楽がそれぞれのレベルで分断され、1つのシーン(作品)として再構築される。「政治の時代」におけるテキストやメッセージの活用、「『映画史』以前」における映像の「分断と再構築」の深化が一つになって結実したのが「『映画史』の時代」の作品群であると言えるだろう。
ビデオ作品として制作された『映画史』は、一般的な意味における映画史に関するカタログ的な解説ではない。何の修飾詞も付けず「映画史」と題されてはいる[1]が、ここで参照され言及される作品は極めて限定されたものに過ぎない。その構成要素は、1950年代までのハリウッド、ヌーヴェルヴァーグを中心としたフランス、イタリアのネオ・レアリスモ、ドイツ表現主義およびロシア・アヴァンギャルド等、その他ヨーロッパ諸国の作品が圧倒的多数を占めており、非欧米では日本から4人の作家(溝口健二、小津安二郎、大島渚、勅使河原宏)とインドのサタジット・レイ、イランのアッバス・キアロスタミ、ブラジルのグラウベル・ローシャ、台湾の侯孝賢が参照されるのが目立つ程度であり、大方の非欧米圏はあっさりと無視されている。時代的にも著しい偏りが見られ、1970年代以降で取り上げられているのは殆どが自分の作品だけであり、大半が1950年代までの「古き良き映画」だ。
また、映画に限らず音楽や絵画等の美術作品、写真(肖像写真を含む)も膨大に引用されており、その取り扱い方に映画との特別な差異はない(これらについても西欧のもののみが対象となっている)。つまり『映画史』とは一般名詞としてのあるいは教養としての「映画史」ではなく、ゴダール自身の映画を中心とした芸術遍歴と論考とを表現したものであり、(様々な)映画について語る(表現する)ことではなく、映画について表現すること自体を映画によって構成したメタ映画がその本質なのだ。
この基本構造は『フレディ・ビュアシュへの手紙』によって実現されたものと本質的な違いはないが、題材や対象範囲の広さ、「分断と再構築」の深度は比較にならないほどの進化を遂げている。ビデオ作品である利点を最大限に生かし、多重引用やリピートなどが盛んに行われており、ただ漫然と眺めているだけでは多くの参照元の推定すら難しいほどの加工が施されている。そしてこうした再構築もビデオクリップ作品のようにおもしろおかしさを基本に構成されているのではなく、その真偽の程はともかくとしても全4部、各部ごとにAとBとに分けられた合計8章ごとに一定のテーマが設けられ、それに従って引用やらコラージュが成されているので、見る側には極度の緊張と集中とが求められることになる。
ゴダールの1990年代は『映画史』の制作に力を注ぎ続けていたと言えるだろうが、『新ドイツ零年』(1991年)や『JLG/自画像』(1995年)もほぼ同傾向の作品と見なすことが可能であり、まさに「『映画史』の時代」であった。しかし、同時に『ヌーヴェルヴァーグ』(1990年)、『フォーエヴァー・モーツアルト』(1996年)のように1980年代と似たような構成、すなわち「分断と再構築」とを基調としながらも物語やある種のテーマ性を持った作品も作り続けている。

後期3:『映画史』以降
1999年/2000年 - 『二十一世紀の起源』- 最新作
『映画史』完了後の2001年に製作された『愛の世紀』もこの系列に位置している。2004年にフランス本国で公開された最新作『アワーミュージック』以降、ゴダールがどのような方向に向かうかは現時点(2004年1月)においては明言することはできないが、「分断と再構築」を手法の基本とし「映画には何が可能か」と言うメタ映画の追求を最終的なテーマとした作品を作り続けていくだろう。つまりゴダールの狙いと目的とするところは実は『勝手にしやがれ』以来根本的な変化はなく、その意味において、彼は終始首尾一貫性を保ち続けている作家だといえる。

1990年代以降顕著になった無数の短篇群、オムニバスへの参加により、ゴダールが監督として、あるいは俳優として参加した映画作品は、140を超える。2010年には新作『ゴダール・ソシアリスム』を公開する。


セザール賞
1998年 名誉セザール賞
『ゴダールの映画史』

その他の賞
1960年 第10回ベルリン国際映画祭銀熊賞
1960年 ジャン・ヴィゴ賞
1961年 フランス批評家連盟批評家賞
勝手にしやがれ
1961年 第11回ベルリン国際映画祭銀熊賞
『女は女である』
1962年 第23回ヴェネツィア国際映画祭パジネッティ賞 / 特別審査員賞
女と男のいる舗道
1965年 英国映画協会サザーランド杯
『気狂いピエロ』
1965年 第15回ベルリン国際映画祭金熊賞
『アルファヴィル』
1966年 第16回ベルリン国際映画祭インターフィルム賞 / 若年向最優秀長篇映画賞
『男性・女性』
1967年 第28回ヴェネツィア国際映画祭特別審査員賞
『中国女』
1973年 第23回ベルリン国際映画祭インターフィルム賞
『万事快調』
1983年 第34回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞
『カルメンという名の女』
1985年 第35回ベルリン国際映画祭インターフィルム賞 / OCIC賞
『こんにちは、マリア』
1986年 ロッテルダム国際映画祭最優秀革新的映画賞
『ゴダールの探偵』
1987年 ルイ・デリュック賞
『右側に気をつけろ』
1991年 第42回ヴェネツィア国際映画祭金メダル
『新ドイツ零年』
2001年 ヴァジャドリー国際映画祭審査員特別賞
2002年 ファジュル映画祭水晶のシームルグ賞
『愛の世紀』
2004年 サンセバスチャン国際映画祭年間FIPRESCI賞
『アワーミュージック』

2009年10月10日土曜日

映画監督『ジャック・タチ』

ジャック・タチ(Jacques Tati、1907年10月9日-1982年11月5日)は、フランスの映画監督・俳優。本名はジャック・タチシェフ(Jacques Tatischeff)。パリ郊外のル・ベック生まれ。父はロシア人、母はオランダ人。


若い頃からパントマイムの道を志し、得意だったスポーツをネタにした芸でならす。1933年からミュージックホールの舞台に立ち、シドニー=ガブリエル・コレットから激賞を受けるなど人気を博した。1932年から映画の仕事も始めたが、最初に話題になったのは、ルネ・クレマンが監督し、タチは脚本と主演を担当した『左側に気をつけろ』Soigne ton gauche(1936年)という短編映画。ここでもお得意のボクシングの芸を披露している。クロード・オータン=ララの『乙女の星』Sylvie et le fantôme(1945年)と『肉体の悪魔』Le Diable au corps(1947年)に出演した後、1947年に短編映画『郵便配達の学校』 L'École des facteursを初監督する(脚本・主演も)。ここで登場した郵便配達人フランソワは次の作品に生かされることになる。

5つの長編劇場公開作
本格的な長編映画デビューは、監督・脚本・出演を兼ねた『のんき大将脱線の巻』Jour de fête(1949年)。フランスの片田舎の郵便配達人が、アメリカ式合理主義に影響されて、自転車で駆け回りながら騒動を巻き起こすコメディ映画であった。この作品はモノクロ映画として当初上映されていたが、実は同時に2色方式トムソン・カラーによるフランス最初の長編色彩映画として全編撮影されていた。公開当時は技術的な困難さのために、このカラー・ヴァージョンは公開できなかったが、1995年彼の娘を中心にシネマテーク・フランセーズによって復元され、日本でも劇場公開された。この作品の舞台は、タチがドイツ占領下のパリを逃れて住んだサント・セヴェールという小さな村で、その村が大変気に入って、映画の舞台に選んだ。
次回作以降、のっぽで小さい帽子をかぶり、吸口の長いパイプをくわえ、レインコートと寸足らずのズボンを着用した無口な主人公「ユロ氏」のキャラクターを確立させ、以後自作自演で映画に登場することになる。ちなみに英国のローワン・アトキンソンのインタビューによると「ミスター・ビーン」のキャラクターにも大いに影響を与えていたとの事である。


『ぼくの伯父さんの休暇』の舞台「サンマルクホテル」に立つ「ユロさん」の銅像
長編第2作は『ぼくの伯父さんの休暇』 Les Vacances de Monsieur Hulot(1953年・モノクロ映画)。ユロ氏がフランスの浜辺の高級リゾートに現れ、8月の優雅なバカンス地に大騒動を巻き起こす。ユロ氏を中心にコミカルなエピソードが次から次へと繰り広げられるが、ほとんどサイレント映画の様な視覚的なドタバタに終始している。サウンドトラックは英語版・フランス語版の2種類作られたが、ほとんどが音楽とサウンド・エフェクトを占めていて、独特の音響センスに満ちている。この作品は米国のアカデミー賞オリジナル脚本賞にノミネートされ、また後のヌーヴェルヴァーグの批評家にも大絶賛された。
長編第3作は『ぼくの伯父さん』Mon Oncle(1958年)。日本ではこちらの方が早く公開されたため、『ぼくの伯父さんの休暇』とは直接の関係はない。パリの古い下町に住む、ぼくの伯父さんことユロ氏が、自動化されアメリカナイズされたモダンな住宅やプラスチック工場で悪戦苦闘するコメディである。この作品では、そのモダンな住宅のセットも話題になり、タチのモダニスト的な資質にも注目された。この映画は、米国アカデミー賞の最優秀外国語映画賞を受賞した。
長編第4作は、大作『プレイタイム』Playtime(1967年)。タチは私財をなげうって、ほぼ10年がかりで、この超大作を作り上げた。近未来のパリということで、高層ビルが林立する一つの都市をつくりあげてしまった。この作品では、ほとんどプロットというのが無く、ユロ氏と一団のアメリカ人観光客がこの街を彷徨う中、その中からフランスの古き良き伝統を発見するというコメディ映画である。当時フランス映画史上最大の製作費をかけ、しかも高画質にするため70mm磁気6チャンネルのフォーマットを使って壮大な世界を作り上げた。『プレイタイム』のオリジナルは155分の長尺であったが、彼自身の手で126分まで短縮され、しかも経理上の問題から、次々と短縮され、米国での公開ヴァージョンでは93分モノラルまでカットされ公開された。公開当時は一部の批評家には絶賛されたが、多くのマスコミから酷評を受け、興行的にも惨敗であり、その失敗は一生彼にまとわりついた。その後2002年になってようやく、カンヌ国際映画祭の歿後20周年記念上映で126分70mmヴァージョンが復元された。
『プレイタイム』製作中に資金難に陥り、製作が一時止まったとき、短編『ぼくの伯父さんの授業』Cours du soir(1967年)が撮られる。これは、ユロ氏が彼のコメディを出来の悪そうなコメディアンに伝授するという内容であった。この中には郵便配達人フランソワの姿も見られ懐かしい。
タチは彼の作品の登場人物一人一人の動きをまるでバレーの振付師のように実演して見せたという(女性の場合は女装してまで実演した)。画面構成も俳優の動きまであくまで完全主義であったのである。
長編第5作は、比較的低予算の『トラフィック』Trafic(1971)である。この作品は、ユロ氏が自動車デザイナーとなって、アムステルダムで開かれるモーターショーに、自ら設計したキャンピングカーを運転していくコメディ映画である。ここでは、モータリゼーションの発達やコミュニケーションの困難さを背景にしているが、あくまでそれは映画の背景であり、道中日常的な渋滞やさまざまな事故に巻き込まれながらもスマートに演出されている。
遺作となったのは、スウェーデンのテレビ局のために監督・脚本・主演したテレビ映画『パラード』Parade(1974)である。2人の子供が訪れたサーカスを舞台に繰り広げられるショーの模様を温かいタッチで描いたコメディである。タチはサーカス団の団長を演じて、年齢を感じさせない、達者な動きを見せている。


早くから、同時代にタチの作家性に気がつき、絶賛していたフランソワ・トリュフォーやオーソン・ウェルズといった人物もいたが、彼の再評価が始まったのは彼の歿後1990年代後半になってからである。[要出典]2002年に第55回カンヌ国際映画祭で行われた歿後20周年を記念した回顧上映は絶賛を受けたのであった。
アニメ作品『ベルヴィル・ランデブー』 Les Triplettes de Belleville(2002年)を監督したシルヴァン・ショメもジャック・タチの影響を受けたと公言して憚らない熱烈なファンの一人であり、2010年にタチが生前に残した脚本をもとにしたアニメーション映画『イリュージョニスト』を制作している。
また、日本の芸術家の沼田元氣も、タチの大ファンで、「ぼくの伯父さんの~」という題した本を、何冊も出している。また、タチの絵本の翻訳も行っている。また雑誌「ガリバー」1992年5月14日号の「ムッシュ・ユロに会いたい ぼくの伯父さんを探して」という特集で、タチの娘であるソフィー・タチシェフへのインタヴューや、映画のロケ地を回る旅をしている。
他に、現代音楽家伊左治直は、タチへのトリビュートCD「南天夢譚―ジャック・タチの優しい夜」を製作している。
故人である作家、長谷川四郎にもブラックユーモアあふれるメルヘン「ぼくの伯父さん」という代表作がある。また、一色進率いる「ジャック達」というロック・バンドもある。


1958年、『ぼくの伯父さん』でアカデミー賞(外国語映画賞)を受賞して訪米する時、映画会社の人間が「ジェリー・ルイス(当時人気絶頂)とお会いになるおつもりがあるならば、セットしますよ。」 と言った。彼は答えて、「ジェリー・ルイスと会う必要は感じません。もし会えるなら私はむしろ、マック・セネットと会いたいです。」 と言った。当時、養老院で最晩年を送っていたマック・セネットはこれを聞いて大いに喜び、ジャックが深く愛したサイレント喜劇映画時代の仲間を呼び集め、ジャックを迎えて親しく歓談したという。 そのメンバーとは、無声喜劇映画の巨星たち、すなわちバスター・キートン、ハロルド・ロイド、そしてスタン・ローレル(オリヴァー・ハーディは前年に死去。) であった。
アカデミー賞受賞時のスピーチの一節。 "If Hollywood had not done so many funny pictures, I would not be here tonight. For all those great comedians, I am not the uncle, but the nephew." (もしハリウッドがあれほどたくさん面白い映画を作っていなかったら、今夜私はここにいないでしょう。あの偉大なコメディアン諸氏に対して、 私は「伯父さん」ではないのです。私は彼らの甥っ子なのです。)



主な作品

  • パラード -Parade(1974年・TV作品)※監督/製作/脚本/出演
  • トラフィック -Trafic(1971年)※監督/脚本/出演
  • プレイタイム -Playtime(1967年)※監督/脚本/出演
  • ぼくの伯父さんの授業 -Cours du soir(1967年)※脚本/出演
  • ぼくの伯父さん -Mon Oncle(1952年)※監督/脚本/台詞/出演
  • ぼくの伯父さんの休暇 -Les Vacances de Monsieur Hulot(1952年)※監督/脚本/出演
  • 新のんき大将 -Jour de fête(1949年)※監督/脚本/出演 -「のんき大将脱線の巻」の別ヴァージョン。従来この映画には、モノクロのヴァージョンと、1963年にタチが部分的な彩色を施しいくつかのシーンを付け加えて再編集したヴァージョンの2種類がある事が知られていた。しかし1988年に、実はカラー用のキャメラで撮影されたもう一つのヴァージョンが存在していた事が分かり、復元したのがこの作品。
  • 肉体の悪魔 -Le Diable au corps(1947年)※出演
  • のんき大将脱線の巻 -Jour de fête(1947年)※監督/脚本/出演
  • 郵便配達の学校(1947年)-L'École des facteurs ※監督/脚本/出演
  • 乙女の星 -Sylvie et le fantôme(1945年)※出演
  • 左側に気をつけろ -Soigne ton gauche(1936年)※脚本/出演

2009年10月6日火曜日

映画監督『エリック・ロメール』

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エリック・ロメール(Éric Rohmer、本名ジャン=マリ・モリス・シェレール(Jean-Marie Maurice Schérer)、1920年3月21日(3月20日、4月4日説もあり) - 2010年1月11日)

フランスの映画監督。ヌーヴェル・ヴァーグの重要人物。男女の恋愛模様を軽快なタッチで描く一方、文芸作品などにも取り組む。

フランス中部コレーズ県テュール生まれ。大学で文学を専攻し、1942年に文学教師の資格を得て、パリのリセで教鞭をとる(古典文学を教授)。その傍ら映画評論を執筆する。
1950年当時、シネクラブ・デュ・カルティエ・ラタンの機関誌『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』を編集発行していた。そこにはジャック・リヴェット、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらが執筆参加していたが、半年で廃刊して、アンドレ・バザンら左岸のもうひとつのシネクラブ「オブジェクティフ49」による『カイエ・デュ・シネマ』創刊に合流した。
1951年、バザンらによって創刊された同誌に寄稿しはじめ、後に6年間編集長をつとめる(1957年 - 1963年)。
1959年、長編第一作『獅子座』を監督し1963年に発表。クロード・シャブロルの設立した会社で製作したが、同社は遺産相続による潤沢な資金で起こしたもので、そのエピソードは本作のストーリーのモティーフとなった。
1962年、バルベ・シュレデールともにレ・フィルム・デュ・ローザンジュという会社を起こし、同年、連作「六つの教訓話」を撮り始める。
2001年、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞・特別功労賞を受賞。
2005年、アカデミー・フランセーズよりルネ・クレール賞が贈られる。
大の飛行機嫌い。
小説の執筆もしていた。(『Élisabeth』1946年)。
息子はジャーナリストルネ・モンザ(本名ドニ・シェレール)である。。


監督作品

  • 獅子座 Le Signe du lion (1959)
  • 「六つの教訓話」シリーズ (Six contes moraux)
  • モンソーのパン屋の女の子 La Boulangère de Monceau (1962)
  • シュザンヌの生き方 La Carrière de Suzanne (1963)
  • コレクションする女 La Collectionneuse (1967) ベルリン国際映画祭銀熊賞
  • モード家の一夜 Ma nuit chez Maud (1969) 全米映画批評家協会賞・脚本賞、ニューヨーク映画批評家協会賞・脚本賞
  • クレールの膝 Le Genou de Claire (1970) ルイ・デリュック賞
  • 愛の昼下がり L'Amour l'après-midi (1972)
  • O侯爵夫人 La Marquise d'O... (1976) カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ
  • 聖杯伝説 Perceval le Gallois (1978) フランス批評家協会メリエス賞
  • 「喜劇と格言劇」シリーズ (Comédies et proverbes)
  • 飛行士の妻 La Femme de l'aviateur (1981)
  • 美しき結婚 Le Beau Mariage (1982)
  • 海辺のポーリーヌ Pauline à la plage (1983) ベルリン国際映画祭監督賞/国際批評家連盟賞
  • 満月の夜 Les Nuits de la pleine lune (1984)
  • 緑の光線 Le Rayon vert (1986) ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞/国際批評家賞
  • 友だちの恋人 L'Ami de mon amie (1987)
  • レネットとミラベル/四つの冒険 Quatre aventures de Reinette et Mirabelle (1987)
  • 「四季の物語」シリーズ (Les Contes des quatre saisons)
  • 春のソナタ Conte de printemps (1989)
  • 冬物語 Conte d'hiver (1991)
  • 夏物語 Conte d'été (1996)
  • 恋の秋 Conte d'automne (1998) 全米映画批評家協会賞外国語映画賞
  • 木と市長と文化会館/または七つの偶然 L'Arbre, le Maire et la Médiathèque (1992)
  • パリのランデブー Les Rendez-vous de Paris (1995)
  • グレースと公爵 L'Anglaise et le Duc (2001)
  • 三重スパイ Triple agent (2004) *映画祭上映
  • 我が至上の愛〜アストレとセラドン〜 Les Amours d'Astrée et de Céladon (2006)



短編映画など

  • 邦題があるものは日本国内での上映やビデオ・DVD等の発売実績あり。
  • Journal d'un scélérat (1950)
  • 紹介、またはシャルロットとステーキ Présentation ou Charlotte et son steak (1951)
  • Les petites filles modèles (1952)
  • Bérénice (1954)
  • La Sonate à Kreutzer (1956)
  • ヴェロニクと怠慢な生徒 Véronique et son cancre (1958)
  • パリのナジャ Nadja à Paris (1964)
  • パリところどころ Paris vu par...:第4話「エトワール広場」 Place de l'Étoile (1965) オムニバス映画
  • パスカルについての会話 Entretien sur Pascal (1965) 教育番組
  • カール・ドライヤー Carl Dreyer (1965) インタビュー
  • ある現代の女子学生 Une étudiante d'aujourd'hui (1966) ドキュメンタリー
  • モンフォーコンの農婦 Fermière à Montfaucon (1967) ドキュメンタリー
  • ルイ・リュミエール Louis Lumière (1968) 教育番組
  • Loup, y es-tu ? (1983)
  • コーヒーを飲んで Bois ton café (1986) PV(ミュージック・ビデオ)
  • Un dentiste exemplaire (1997)
  • 背中の反り La cambrure (1999)
  • Une histoire qui se dessine (1999)
  • Le canapé rouge (2004)


映画作家『William Klein』



ウィリアム・クライン (William Klein, 1928年4月19日 - )



クラインは1928年ニューヨーク市生まれです。両親はハンガリー出身です。ニューヨーク市立大学で社会学を学んだ後、アメリカ陸軍に入隊し欧州に滞在します。除隊後、 パリ、ソルボンヌ大学で文学を、その後、画家レジェのアトリエで絵画を学びます。しかし彼はパリ滞在にかかわらず、多くの専門分野に展開の可能性を持つドイツ・バウハウスに魅了されたそうです。1950年に画家として独立、その後建築家との共同作業などを行い、自作を実験的に撮影することから写真を開始しています。1954年ヴォーグ誌のアート・ディレクターだったアレクサンダー・リーバーマン が彼の実験的抽象写真に興味を示し、1955年からファッション写真の撮影を始めます。


1956年パリで発刊された写真史上有名な"ニューヨーク"は ヴォーグを発行するコンデナスト社が撮影を支援しています。 この写真集は1957年フランスのナダール新人賞受賞まで世間でまったく注目されませんでした。 この本の中でクラインは個人的な視点を全面にだし、ブレ、ボケ、アレなど従 来の写真のタブーを破った大胆な方法で日常のニューヨーク・シーンを表現しています。彼のスタイルはその後多くの写真家に影響を与えることになります。 ロバート・フランクの写真集"アメリカ人"とともに、クラインの登場が写真を社会との関わりから切り離し、アート作品になる可能性があるパーソナルな表現としたのです。
クラインはニューヨークを撮影後、同じ手法でローマ(1959年)、モスクワ(1964年)、東京(1964年) の写真集も相次いで制作しています。


彼のファッション写真も画期的でした。自由なフレーミング、広角レンズの 実験、マルチフラッシュなどで現在につながるアンチ・ファッション的のイメージを制作しました。写真のアイデアが優先、服は2次的という手法は従来になく、 正当でないものをイメージに取り込む発想はその後、ニュートンやベイリーに受け継がれていきます
その後、映画に強い興味を持ち、ファッション業界を皮肉った映画"ポリー・マグーお前は誰?"制作とベトナム関連の映画に関わったことで1965年にヴォーグを去ります。 しかし、再び80年~90年代にかけてファッションショーの舞台裏をモチーフにしたスナップを撮影しています。1993年に彼とファッション・イメージとの関わりを回顧する"イン・アンド・アウト・オブ・ ファッション"という映画と写真集を発表しています


1965年から1978年までは写真撮影を止め、映画製作に専念しています。 "ミスターフリーダム"(1967年)、"モハメド・アリ・ザ・グレーテスト"(1964-1974年)、"モデルカップル"(1976年)などで知られています。


80年代に写真活動を再開して以来、日本をはじめ世界各地で写真展が行われる一方、1987年にはフランス政府より写真グランプリを受賞しています。 画家、写真家、映画製作者と非常に活動が多彩で作家としてのカテゴリーわけが難しく、またパリのアメリカ人であることからクラインはアメリカでの評価は高くありませんでした。 実際、写真集"ニューヨーク"のオリジナル版、再版とも米国では発刊されていません。
しかし、1995年にはサンフランシスコ近代美術館で"ニューヨーク"を扱う回顧展が開催され欧州中心だった評価がアメリカにおいても高まっています。


日本では、2004年に東京都写真美術館でパリのヨーロッパ写真美術館で行われた「PARIS+KLEIN」展が巡回開催されています。2005年にはパリのポンピドー・センターでキャリアを本格的に回顧する「ウィリアム・クライン・レトロスペクティブ」展が開催されています。


(抜粋元:http://www.artphoto-site.com/story42.html)




『映画』
・ポリー・マグー お前は誰だ Qui êtes-vous, Polly Maggoo ? 1966年
・ベトナムから遠く離れて Loin du Vietnam 1967年 (オムニバス作品)
・ミスター・フリーダム Mr. Freedom 1969年
・モデル・カップル 1976年
・ MODE IN FRANCE 1984年
・IN & OUT OF FASHION 1993年



『写真集』
'56 ニューヨーク
'56 ローマ
'61 モスクワ
'64 東京







2009年10月5日月曜日

映画監督『マノエル・デ・オリヴェイラ』

■マノエル・デ・オリヴェイラ(Manoel de Oliveira, 1908年12月11日 - )
ポルトガル・ポルト出身の映画監督である。
現在101歳、現役の最高齢の劇映画監督である。
ポルトガルのポルト県ポルト生まれ。若い頃は俳優を志し、スペインやイタリアで学んだ。
2006年、97歳の時に『夜顔』を撮り上げた。本格的かつ定期的に作品を創り上げるようになったのは60歳を過ぎてからである。監督デビューは23歳と早かった。その後、幾度かの監督業休眠期間を経て、63歳の時に撮った『過去と現在 昔の恋、今の恋』(1971年)以降、再び映画の演出を開始、1980年代に入り70歳を過ぎてからは一年に一作に近いペースで新作を撮り続けている。5歳年上の小津安二郎は60歳で死去し、ジョン・フォードやジャン・ルノワール等の大作家達が60歳を過ぎてからは殆ど作品を撮らなかった。
2007年の第60回カンヌ国際映画祭オムニバス映画『それぞれのシネマ』に参加、3分の短篇を撮る。2009年現在でも映画製作を続けている。



主な監督作品


  • ドウロ河 Douro, Faina Fluvial(1931年)
  • アニキ・ボボ Aniki Bóbó(1942年)
  • 過去と現在 昔の恋、今の恋 O Passado e o Presente(1972年)
  • フランシスカ Francisca(1981年)
  • 文化都市リスボン Lisboa Cultural(1983年)
  • 繻子の靴 O Sapato de Cetim(1985年)
  • カニバイシュ Os Canibais(1988年)
  • ノン、あるいは支配の虚しい栄光 'Non', ou A Vã Glória de Mandar(1990年)
  • 神曲 A Divina Comédia(1991年)
  • アブラハム渓谷 Vale Abraão(1993年)
  • 階段通りの人々 A Caixa(1994年)
  • メフィストの誘い O Convento(1995年)
  • 世界の始まりへの旅 Viagem ao Princípio do Mundo(1997年)
  • 不安 Inquietude(1998年)
  • クレーヴの奥方 La lettre(1999年)
  • 家路 Je rentre à la maison(2001年)
  • 家宝 O Princípio da Incerteza(2002年)
  • 永遠の語らい Um Filme Falado(2003年)
  • O Quinto Império - Ontem Como Hoje(2004年)
  • Espelho Mágico(2005年)
  • 夜顔 Belle toujours(2006年)
  • コロンブス 永遠の海 Cristóvão Colombo - O Enigma(2007年)
  • それぞれのシネマ(2007年)※オムニバス映画、3分の短篇
  • ブロンド少女は過激に美しく Singularidades de uma Rapariga Loura(2009年)
  • O Estranho Caso de Angélica(2010年)

2009年10月4日日曜日

映画監督『マイク・フィギス』

マイク・フィギス(Mike Figgis,1948年2月28日 - )

イギリス出身の映画監督・脚本家である。幼い頃はケニアのナイロビで育った。
ミュージシャンでもあり、ギターとトランペットを演奏する。"The Gas Board"というバンドに所属していた。映画の音楽も自分でつける場合が多い。


主な監督作品

  • ストーミー・マンディ Stormy Monday (1988)
  • インターナル・アフェア 背徳の囁き Internal Affairs (1990)
  • 心のままに Mr. Jones (1993)
  • リービング・ラスベガス Leaving Las Vegas (1995)
  • ワン・ナイト・スタンド One Night Stand (1997)
  • セクシュアル・イノセンス The Loss of Sexual Innocence (1998)
  • タイムコード Timecode (2000)
  • HOTEL ホテル Hotel (2001)
  • 10ミニッツ・オールダー イデアの森 Ten Minutes Older: The Cello (2002)
  • レッド・ホワイト&ブルース The Blues (2003)
  • コールド・クリーク 過去を持つ家 Cold Creek Manor (2003)


映画監督『ニキ・カーロ』

ニキ・カーロ(Niki Caro、1967年 - )
ニュージーランド・ウェリントン出身の映画監督、脚本家、映画プロデューサー。
オーストラリアで映画製作を学んだ後に、ニュージーランドのテレビ界で活躍。1997年に映画監督としてデビューした。

マオリ族の世界を描いた『クジラの島の少女』でサンダンス映画祭の観客賞などを受賞。ハリウッド・デビュー作となった『スタンドアップ』ではセクハラ問題を扱い、主演のシャーリーズ・セロン、助演のフランシス・マクドーマンド共にアカデミー賞にノミネートされた。


主な監督作品 
 ・スタンドアップ North Country (2005)





2009年10月3日土曜日

映画作家『ジャン・ルーシュ』

ジャン・ルーシュ(Jean Rouch、1917年5月31日 パリ - 2004年2月18日 ビルニンコニ)

フランスの映画監督、文化人類学者である。ヌーヴェルヴァーグの映画作家として知られる。

1917年5月31日、パリに生まれる。父は気象学者ジュール・ルーシュで、探検家でありモナコ海洋博物館(Musée océanographique de Monaco)館長であった。帆船「プルコワ・パ Pourquoi pas?」号に乗り、フランス極地探検隊(expéditions polaires françaises)にジャン=バティスト・シャロー(Jean-Baptiste Charcot)とともに、1908年 - 1910年の南極探検に参加した人物である。南極から帰還したときに、ルーシュの母と出逢った。
マルセル・モースと、映画を用いた文化人類学研究を行ったマルセル・グリオール(Marcel Griaule)に学ぶ。その影響で土木技師となる。アフリカという主題との長い関係を始めたのは1941年、24歳のときで、当時フランス領西アフリカだったニジェールでの建設計画の現場監督をする民間の土木技師として仕事をしたあとのことである。しかしながら、わずかのちにフランスに帰還し、レジスタンス運動に参加した。戦後、ジャーナリストとしてフランス通信(AFP)と短い期間の仕事をし、アフリカに戻り、その地で影響力のある人類学者になり、ときおり議論をかもす映画作家となる。
1953年、国立科学研究センター(CNRS)で研究を任ぜられ、民族誌映画委員会(Comité du film ethnographique)を創設し、人類博物館(Musée de l'Homme)に籍を置き、そこにはエンリコ・フルキニョーニ(Enrico Fulchignoni)、モーリス・グリオール、アンドレ・ルロワ=グーラン(André Leroi-Gourhan)、アンリ・ラングロワ、クロード・レヴィ=ストロースが同じく在籍した。
ルーシュの作品は、ほとんどが「シネマ・ヴェリテ cinéma vérité」派に属している。この語は、社会学者のエドガール・モラン(Edgar Morin)が、1960年の『フランス・オプセルヴァトゥール France-Observateur』誌の記事でジガ・ヴェルトフ監督の『キノプラウダ』[1](1922年 - 1925年)に言及したときに使用したものである。もっとも知られた作品は、ヌーヴェルヴァーグの中心をなす作品である『ある夏の記録』(1961年)である。同作は、エドガール・モランと共同監督したものであり、現代フランスの社会生活を描き出したものである。ジャン=リュック・ゴダールらが『カイエ・デュ・シネマ』誌にとりあげ、好評裡に論じた。
1964年秋、ヌーヴェルヴァーグを代表する監督たちによるオムニバス映画『パリところどころ』の撮影に参加した。第二話『北駅 Gare du Nord』を監督し、ルーシュのこの作品には、同作のプロデューサーであるバルベ・シュレデールも出演している。同作は、翌1965年、第15回ベルリン国際映画祭で上映された後、フランスでは同年5月19日より公開された。
キャリアを通じて、アフリカにおける生活をレポートするためにカメラを用いた。50年を超える長い期間で、120本にものぼる映画作品を生み出した。ドゴン族(Dogons)についての映画を多数撮り、そのなかでいくつかジェルメーヌ・ディテルラン(Germaine Dieterlen)との共同監督したものがある。
ヌーヴェルヴァーグの映画作家にとって一定のリファレンスであり、知性のしなやかさとことばの才能によって評判がよかった。シネマテーク・フランセーズの代表を5年間つとめた(1986年 - 1991年)。1993年、国際平和賞を受賞。映像人類学(anthropologie visuelle)のキーパーソンである。
2004年2月18日、ニジェールの中心地ビルニンコニから16キロほど離れた地点で、自動車事故に遭い死去した。86歳没。


おもなフィルモグラフィ

  • 狂気の主人公たち Les Maîtres Fous (The Mad Masters) 1954年
  • Les Fils de l'eau 1955年
  • ジャガー Jaguar 1955年 - 1967年
  • 僕は黒人 Moi, un noir 1958年
  • 人間ピラミッド La pyramide humaine 1959年
  • ある夏の記録 Chronique d'un été (Chronicle of a Summer) 1961年 共同監督エドガール・モラン
  • ライオン狩り La chasse au lion à l'arc 1965年
  • パリところどころ Paris vu par... オムニバス 1965年
  • 第二話『北駅 Gare du Nord』 出演ナディーヌ・バロー、ジル・ケアン、バルベ・シュレデール
  • ココリコ、ムッシュー・プーレ Cocorico M. Poulet 1974年
  • Ciné-portrait de Margaret Mead 1977年 ※マーガレット・ミードついてのドキュメンタリー
  • Bougo, les funérailles du vieil Anaï 1979年


2009年10月2日金曜日

映画監督『フランシス・フォード・コッポラ』

フランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola、1939年4月7日 - )
アメリカ合衆国の映画監督。実業家。デトロイト出身、ニューヨーク郊外で育った。


監督作品 

* 1963年『ディメンシャ13』 - Dementia 13
* 1967年『大人になれば…』 - You're A Big Boy Now
* 1968年『フィニアンの虹』 - Finian's Rainbow
* 1969年『雨のなかの女』 - The Rain People
* 1972年『ゴッドファーザー』 - The Godfather
* 1973年『カンバセーション…盗聴…』 - The Conversation
* 1974年『ゴッドファーザーPARTII』 - The Godfather PART II
* 1979年『地獄の黙示録』 - Apocalypse Now
* 1982年『ワン・フロム・ザ・ハート』 - One From The Heart
* 1983年『ランブルフィッシュ』 - Rumble Fish
* 1983年『アウトサイダー』 - The Outsiders
* 1984年『コットンクラブ』 - The Cotton Club
* 1986年『ペギー・スーの結婚』 - Peggy Sue Got Married
* 1986年『キャプテンEO』- Captain EO(ディズニーのテーマパーク内で上映された3D短編映画。)
* 1987年『友よ、風に抱かれて』 - Gardens of Stone
* 1988年『タッカー』 - Tucker
* 1990年『ゴッドファーザーPARTIII』 - The Godfather PART III
* 1992年『ドラキュラ』 - Bram Stoker's Dracula
* 1996年『ジャック』 - Jack
* 1997年『レインメーカー』 - The Rainmaker
* 2007年『コッポラの胡蝶の夢』(ミルチャ・エリアーデ原作)- Youth Without Youth

製作作品 

* 『THX 1138』THX-1138 (1970)
* 『アメリカン・グラフィティ』AMERICAN GRAFFITI (1973)
* 『ワイルド・ブラック/少年の黒い馬』THE BLACK STALLION (1979)
* 『影武者』(1980)
* 『Mishima: A Life In Four Chapters』 MISHIMA: A LIFE IN FOUR CHAPTERS (1985)・・・・・・・・・・四章からなる「三島由紀夫」の映像詩的評伝
* 『コヤニスカッツィ』KOYAANISQATSI (1982)
* 『ポワカッツィ』 POWQQATSI (1988)
* 『フランケンシュタイン』 Frankenstein (1994)
* 『ドンファン』Don Juan Demarco(1995)
* 『ヴァージン・スーサイズ』 The Virgin Suicides (1999)
* 『スリーピー・ホロウ』 Sleepy Hollow (1999)
* 『ジーパーズ・クリーパーズ』 Jeepers Creepers (2001)
* 『『No Such Thing』 No Such Thing (2001)
* 『ロスト・イン・トランスレーション』 Lost in Translation (2003)
* 『愛についてのキンゼイ・レポート』 Kinsey (2004)

映画監督『アボルファズル・ジャリリ』

アボルファズル・ジャリリ
(Abolfazl Jalili)

<PROFILE>

1957年6月29日、イラン中央部のサヴェーに生まれる。13歳で自分が描いた絵や書を売り生計を立てる。79年、IRIB(イラン国営テレビ)に入社、この間に手がけた短編ドキュメンタリーや短編劇映画を通じて独自の手法を模索する。
少年院の子どもたちを実際に出演者に起用した第3作『かさぶた』(87)により、批評家の注目を集める。だが、常に過酷な状況下にある子どもたちをリアルに描くジャリリの作品は、イラン国内では常に賛否両論の論争を巻き起こし、92年製作の『ダンス・オブ・ダスト』は国内外を問わず一切の上映を禁止される。
95年、原因不明の病気にかかった妹を治そうとする少年を描いた『7本のキャンドル』がヴェネチア国際映画祭で金のオゼッラ賞を受賞。翌96年にはドキュメンタリーとフィクションを大胆に融合させた『トゥルー・ストーリー』がナント三大陸映画祭でグランプリを獲得し、ジャリリの名は一気に世界に知られることになる。
ハタミ政権が成立した後の98年には、『ダンス・オブ・ダスト』がついに海外での上映を解禁され、ロカルノ国際映画祭での銀豹賞をはじめ、各国の映画祭で様々な賞を受賞。同年、サン・セバスチャン国際映画祭では『ぼくは歩いてゆく』が審査員賞を受賞している。また、モフセン・マフマルバフ、ナセール・タグヴァイと競作したオムニバス『キシュ島の物語』は99年のカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に正式出品された。2001年、実際のアフガン難民の少年を主演に据え完成させた『少年と砂漠のカフェ』は、ナント三大陸映画祭で見事グランプリを受賞。2007年には麻生久美子の海外初進出作品となる『ハーフェズ ペルシャの詩』がローマ国際映画祭審査員特別賞を受賞。世界にその名を轟かせる監督である。 

2009年10月1日木曜日

映画監督『ティム・バートン』

ティム・バートン(Tim Burton、本名:Timothy William Burton、1958年8月25日 - )は、アメリカ合衆国の映画監督、映画プロデューサー、脚本家、芸術家。現在はイギリス・ロンドン在住。

ディズニーのアニメーターとして『トロン』(TRON)などに参加後、実写短編『フランケンウィニー』を演出。1985年に『ピーウィーの大冒険』で長編映画デビュー。

ゴシック、ホラー、ファンタジーなどを基調とした独特の映像センスとキャラクター造形が特徴で、特にB級ホラー映画・カルト映画等を偏愛し、作品にそのテイストが反映されていることもしばしばある。

映画
* 1982年『ヴィンセント』Vincent
* 1984年『フランケンウィニー』Frankenweenie
* 1985年『ピーウィーの大冒険』Pee-wee's Big Adventure
* 1988年『ビートルジュース』Beetlejuice
* 1989年『バットマン』Batman
* 1990年『シザーハンズ』EDWARD SCISSORHANDS - 監督/製作/原案
* 1992年『バットマン・リターンズ』Batman Returns - 監督/製作
* 1992年『シングルス』 Singles - カメオ出演
* 1992年『ホッファ』 Hoffa - カメオ出演
* 1993年『キャビン・ボーイ/航海、先に立たず』 - 製作
* 1993年『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』The Nightmare Before Christmas - 製作/原案
* 1994年『エド・ウッド』Ed Wood - 監督/製作
* 1995年『バットマン・フォーエヴァー』Batman Forever - 製作
* 1996年『ジャイアント・ピーチ』James and the Giant Peach - 製作
* 1996年『マーズ・アタック!』Mars Attacks! - 監督/製作
* 1999年『スリーピー・ホロウ』Sleepy Hollow
* 2000年『マリオ・バーヴァ 地獄の舞踏』 <TVM> - 出演
* 2001年『PLANET OF THE APES/猿の惑星』Planet of the Apes
* 2003年『ビッグ・フィッシュ』Big Fish
* 2005年『チャーリーとチョコレート工場』Charlie and the Chocolate Factory
* 2005年『ティム・バートンのコープスブライド』Corpse Bride - 監督/製作
* 2007年『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』Sweeney Todd: The Demon Barber of Fleet Street - 監督
* 2009年『9 ~9番目の奇妙な人形~』9 - 製作
* 2010年『アリス・イン・ワンダーランド』Alice in Wonderland - 監督/製作
* 2011年『フランケンウィニー』Frankenweenie- 監督/製作
* 2011年『Dark Shadows(原題)』Dark Shadows - 監督/脚本