2009年1月13日火曜日

JAZZ-Player : Louis Armstrong ( USA. 1901年8月4日- 1971年7月6日 )


<Louis Armstrong>(1901年8月4日- 1971年7月6日)

アフリカ系アメリカ人のジャズミュージシャンである。
サッチモ(Satchmo)という愛称でも知られ、20世紀を代表するジャズ・ミュージシャンの一人である。
 
生い立ち
アームストロングが生まれ育ったのは、ニューオーリンズのアフリカ系アメリカ人が多く住む比較的貧しい居住区であった。
子供の頃に祭りで浮かれ、ピストルを発砲して少年院に送られた。
その少年院のブラスバンドでコルネットを演奏することになったのが、楽器との最初の出会いとなった。
その後、町のパレードなどで演奏するようになり人気者となる。

メジャーデビュー
1923年、シカゴに移りキング・オリヴァーの楽団に加入。
同年、初のレコーディングを行う。
1924年にはニューヨークに行きフレッチャー・ヘンダーソン楽団に在籍。この時期、ブルースの女王ベッシー・スミスとも共演。
その後シカゴに戻り、当時の妻リル・ハーディン・アームストロング(ピアノ)らと共に自分のバンドのホット・ファイヴを結成。
同バンドが1926年に録音した楽曲「Heebie Jeebies」は、ジャズ史上初のスキャット・ヴォーカル曲として知られる。



1930年代にはヨーロッパ・ツアーも行う。
第二次世界大戦時には慰問公演も行った。
しかし人種差別が法的に認められていた当時のアメリカでは、公演先でも白人と同じホテルへ泊まれない他、劇場の入り口さえ別々というような差別を受け続けた。

幅広い活躍
1950年代には「バラ色の人生」や「キッス・オブ・ファイア」等が大ヒット。

また、1953年には初の日本公演を行う。
1956年にはエラ・フィッツジェラルドとも共演。

1960年代、時代がビートルズを代表とするポップ・ミュージック一色となる中でも、「ハロー・ドーリー」はミリオン・セラーとなり、多くのアメリカ国民に受け入れられた。


1967年には、「この素晴らしき世界(What a Wonderful World)」が世界的なメガヒットとなった。


1968年にはウォルト・ディズニー映画の曲を取り上げたアルバム『サッチモ・シングス・ディズニー』を発表し、ジャンルに縛られない柔軟な姿勢を見せ付けた。

高い音楽性と、サービス精神旺盛なエンターテイナーぶりが評価され、映画にも多く出演した。代表作はフランク・シナトラやビング・クロスビーと共演した『上流社会』や『5つの銅貨』、『ハロー・ドーリー』等。

評価
アームストロングは明朗な性格と高い音楽的技術をあわせ持つカリスマ的かつ独創的な演奏者であり、洗練されていない地方的なダンスミュージックをポピュラーな音楽形態であるジャズへ発展させた。
トランペット奏者、歌手としても有名。
ジャズ界でも稀であるほどの天才トランペット奏者と言われ、ウィントン・マルサリスは「色々なトランペット奏者の良い所を盗もうとしたけど、アームストロングだけは盗めなかった。とにかく凄すぎるからさ」と賞賛。
歌の方でもスキャットという手法を広めたことで知られ、マイルス・デイヴィスは「アームストロングは喋りまでジャズになっている」と語っている。 
 
 

2009年1月12日月曜日

JAZZ-Player : Herbie Hancock(本名:Herbert Jeffrey Hancock. USA. 1940年4月12日 - )

Herbie Hancock(本名:Herbert Jeffrey Hancock、1940年4月12日 - )
アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ出身のジャズ・ピアニスト、作曲家、編曲家、プロデューサー。

1960年代以降から現在において、ジャズ・シーンをリードするジャズの第一人者であり、ストレートアヘッド・ジャズ、フュージョン、ジャズ・ファンクなど多彩なジャズ・スタイルの最先端を走っている。

1960年プロとしてデビュー。
1963~68年はマイルス・デイビス・クインテットのメンバーとして活躍。
70年代以降もジャズ・ファンクの『ヘッド・ハンターズ』、アコースティック・ジャズ人気を復活させたVSOPクインテットの諸作、ジャズ・ヒップホップの『フューチャー・ショック』など、ジャズの新しい時代を切り開く話題作を発表してきた。
代表的な楽曲に
「ウォーターメロン・マン」("Watermelon Man")


「カンタロープ・アイランド」("Cantaloupe Island")


「処女航海」(Maiden Voyage)
「ドルフィン・ダンス」("Dolphin Dance")


など多くのジャズ・スタンダードの他、ヒップ・ホップとのクロスオーバーを図った「ロック・イット」もある。



7歳でピアノレッスンをはじめたハンコックは、11歳でシカゴ交響楽団と共演。
高校時代にジャズを演奏し始めた。オスカー・ピーターソンやビル・エヴァンスに影響を受けたといわれている。
グリネル大学では音楽と電気技師を専攻、音楽と電子工学の両分野で博士号を取得。
その後もニューヨークのクラブやスタジオ・シーンで名を馳せる。

1960年にドナルド・バードに見出されると、その彼のクインテットでプロとしてのスタートを切る。
さらにドナルド・バードに「ブルーノート・レーベル」アルフレッド・ライオンの紹介を受けた。
その後、2年間のセッションマンとして実績を重ね、21歳になった1962年にデクスター・ゴードンを迎えた作品『Takin' Off』でデビュー。
この中に収録された「ウォーターメロン・マン」("Watermelon Man")は大ヒットとなり、この作品でハンコックは押しも押されもしないブルーノート新主流派の中心アーティストにのし上がった。
その後エリック・ドルフィーのもとで活動し、「ブロウ・アップ」などのサウンドトラックを発表した。

1963年、マイルス・デイヴィスのグループに抜擢され、1968年頃まで在籍する。
脱退後もマイルス・デイヴィスのセッションに随時参加し、マイルスのいくつかのアルバムにその足跡を残している。
また、この頃自己のアルバムとして彼の代表作『Maiden Voyage』(処女航海、1965年)




『Speak Like A Child』(1968年)


を発表した。

1973年に問題作『ヘッド・ハンターズ』(Head Hunters)を発表。


本作は従来のジャズファンの枠を超えて反響を呼び記録的に売上げるとともに大きな名声を獲得したが、当時のジャズファンからは、ハービーも堕落したなど非難を受けることもあった。
エレクトリックピアノ/キーボードを専ら弾く彼に対する「もうアコースティック・ピアノは弾けないんだろう」との野次に対し、舞台上でピアノを用意させて演奏を披露、観客を納得させるなどという出来事もあった。

1975年6月25日にヘッド・ハンターズの広島公演後、原爆被爆者に捧げるとして滞在先の広島市内でピアノに向かって徹夜で作曲。
翌日、ピアノソロ曲「平和の街のために」("For The City Of Peace")を広島市に寄贈した。
寄贈式にて演奏された同音源は続けて演奏された「ウォーターメロン・マン」とともに現在、広島平和記念資料館内の情報資料室(※同室に限り8月上旬を除き土・日・祝日が閉室)にて試聴できる。

1976年に、元マイルス・グループの黄金のクインテットと称されたときのメンバー(ウェイン・ショーター、トニー・ウィリアムス、フレディ・ハバードら)を集めて、モダン・ジャズのグループ、“V.S.O.P.クインテット”を結成し世界中をツアーした。

1983年の「フューチャー・ショック」では、ヒップ・ホップを大胆に導入。


DJスクラッチを取り入れたスタイルはクラブ・ミュージックの方向性を決定付けた。
このアルバムはベーシスト兼プロデューサーであったビル・ラズウェルの実験的な音楽アイデアを元に製作された。
またシングル・カットされたGrandmixer DSTのスクラッチを取り入れた「Rock it」が世界中で大ブレイク。


これ以降の電気サウンド作品についても例に漏れず、不定期ではあるが作品を発表している(「Dis Is Da Drum」、「Future 2 Future」など)。

1985年にはベーシストのロン・カーターと共演したサントリーホワイトのCMがテレビ放映され、話題になった。




一方、1986年の音楽監督をし自らが出演した映画『Round Midnight』に 取り組むほか、現代のポピュラー・ソングを鮮烈なシャズ・ナンバーにした『New Standard』、1998年アメリカが生んだ偉大なる作曲家ジョージ・ガーシュウィンの生誕百年に発表した『ガーシュウィン・ワールド』、2002年 にはマイルス・デイビス、ジョン・コルトレーンの生誕75周年を記念してマイケル・ブレッカー、ロイ・ハーグローブと「ディレクションズ・イン・ミュー ジック」というスペシャル・プログラム(全米ツアー)を行った。
1986年に音楽監督をした映画『ラウンド・ミッドナイト』でアカデミー作曲賞を獲得。

2003年からアジア最大級のジャズイベント「東京Jazz」の総合プロデュースを担当。 2004年に国立芸術基金(NEA)ジャズマスターズ賞を受賞。

グ ラミー受賞においては、1983年初の「ベストR&Bインストゥルメンタルパフォーマンス」賞をはじめとし、2002年の「ベスト・ジャズ・イン ストゥルメンタル・アルバム」賞と「ベスト・ジャズ・インストゥルメンタル・ソロ・パフォーマンス」賞(ダブル受賞)を含め、受賞は多数を数える。
2008年の第50回グラミー賞においては「River: The Joni Letters」が同賞の主要4部門の一つである、最優秀アルバム賞を受賞している。


ジャズ・ミュージシャンの総合部門における最優秀アルバム賞受賞は 1964年のスタン・ゲッツ & ジョアン・ジルベルトの『Getz/Gilberto』以来43年ぶりである。


アルバム

* Takin' Off (1962) - Blue Note
* Inventions and Dimensions (1963) - Blue Note
* My Point of View (1963) - Blue Note
* Empyrean Isles (1964) - Blue Note
* Maiden Voyage (1965) - Blue Note
* Blow Up (1966) - メトロ・ゴールドウィン・メイヤー
* Speak Like a Child (1968) - Blue Note
* The Prisoner (1969) - Blue Note
* Fat Albert Rotunda (1969) - Warner Bro.
* Mwandishi (1970) - Warner Bro.
* Crossings (1971) - Warner Bro.
* Sextant (1972) - Columbia
* Head Hunters (1973) - Columbia
* Thrust (1974) - Columbia
* Death Wish (Soundtrack) (1974) - Columbia
* Dedication (1974) - Columbia
* Man-Child (1975) - Columbia
* Flood (1975) - Columbia
* Secrets (1976) - Columbia
* VSOP (1976) - Columbia
* VSOP: The Quintet (1977) - Columbia
* VSOP: Tempest at the Colosseum (1977) - Columbia
* Sunlight (1978) - Columbia
* Direct Step (1978) - Columbia
* The Piano (1979) Columbia
* An Evening With Herbie Hancock & Chick Corea: In Concert (1978) Columbia
* Feets, Don't Fail Me Now (1979) - Columbia
* VSOP: Live Under the Sky (1979) - Columbia
* VSOP: Five Stars (1979) - Columbia
* Monster (1980) - Columbia
* Mr. Hands (1980) - Columbia
* Herbie Hancock Trio (1981) - Columbia
* Magic Windows (1981) - Columbia
* Lite Me Up (1982) - Columbia
* Quartet (1982) - Columbia
* Future Shock (1983) - Columbia
* Sound-System (1984) - Columbia
* Perfect Machine (1988) - Columbia
* A Tribute to Miles Davis (1994) - Qwest/Warner Bro.
* Dis Is Da Drum (1994) - Verve/Mercury
* The New Standard (1995) - Verve
* 1 & 1 (with Wayne Shorter) (1997) - Verve
* Gershwin's World (1998) - Verve
* Future 2 Future (2001) - Transparent
* Directions in Music: Live at Massey Hall (2002) - Verve
* Jazz Masters: Herbie Hancock (2004) - Digital Musicworks International
* Possibilities (2005) - Concord/Hear Music
* River: The Joni Letters (2007) – Verve
* The Imagine Project (2010) - Hancock

2009年1月11日日曜日

JAZZ-Player : Miles Dewey Davis III(USA. 1926年5月26日 - 1991年9月28日)

Miles Dewey Davis III (1926年5月26日 - 1991年9月28日)
ジャズのトランペット奏者。
アルバム『カインド・オブ・ブルー』『ビッチェズ・ブリュー』などで知られる、モダン・ジャズの“帝王”。
クール・ジャズ、ハード・バップ、モード・ジャズ、エレクトリック・ジャズ、フュージョンなど、時代に応じて様々な音楽性を見せ、ジャズ界を牽引した。
ジャズ界・ジャズ愛好家の間で“マイルス”といえばマイルス・デイヴィスを指す。




出生~1940年代
ア メリカのイリノイ州アルトン生まれ。翌年にイーストセントルイスへ転居。父は歯科医であったため、マイルス自身は他のジャズプレイヤーよりとても裕福な環 境で育った。母は音楽の教師をしており、その影響で10代の頃からトランペットに興味を持ち演奏練習をしていた。高校時代に地元ではジャズバンドを結成、 セントルイスでは大人とのバンドで活躍していた。当時のセントルイスにはアフリカ系アメリカ人の労働者の居住区が多く、ジャズライブが定期的に行われてい た。そのためマイルスは多数のジャズプレイヤーを見て学んでいた。

18歳のある日にマイルスは、セントルイスにチャーリー・パーカーが演 奏しに来たとき偶然にもチャーリーとの共演を果たした。彼はその後直ぐにニューヨークに出てジュリアード音楽院に入学。後チャーリーのバンドに加わる事と なった。1947年には、チャーリーやマックス・ローチのサポートを得て、初のリーダー・セッションを行う。

チャーリーの元でのビバップからキャリアは始まったが、マイルスは新たな可能性を求め、1948年に編曲家のギル・エヴァンスと出会う。ギルの協力を得て、ウェスト・コースト・ジャズの影響を受けた『クールの誕生』を制作。その後もギルとは度々共同制作を行う。

1950年代
1950 年代に入ると、アート・ブレイキーなどと共演するが、麻薬の問題で演奏活動から遠ざかる。しかしマイルスは立ち直り、1954年プレスティッジ・レコード から発表した『ウォーキン』以降、ハード・バップの旗手として活躍。1954年12月24日にはセロニアス・モンクと共演するが、両者は音楽に対する考え 方が相容れなかったとされ、この共演は俗に「喧嘩セッション」と呼ばれていた。しかし実際の所、このセッションは演出上マイルスが吹くときにはモンクに演 奏しないよう、マイルスが指示したというだけであり、実際には不仲ではなく、評論家が不仲であるかのように曲解してそう名付けただけのものである(他なら ぬモンク自身もマイルスの指示を了解していた事が判明している)。

1955年、ジョン・コルトレーン、レッド・ガーランド、ポール・チェ ンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズのメンバーで、第一期クインテットを結成。同年、ニューポート・ジャズフェスティバルにおいて、チャーリー・パー カーの追悼のためのオールスター・バンドに参加。このときの演奏がきっかけとなりコロムビア・レコードと契約。1956年に移籍第一作『ラウンド・アバウ ト・ミッドナイト』発表。その一方で、プレスティッジとの間に残された契約を済ませるために、アルバム4枚分のレコーディングをたった2日間で行った。 24曲、すべてワンテイクであったといわれる。俗に「マラソン・セッション」と呼ばれるが、連続した2日間ではなく、2回のセッションの間には約5ヶ月の ブランクがある。これらの演奏は『ワーキン』『スティーミン』『リラクシン』『クッキン』の4枚のアルバムに収録され、プレスティッジはこの4枚を毎年1 枚ずつ4年かけて発売した。

また、1957年にはパリへ渡り、現地のジャズメンと共に、映画『死刑台のエレベーター』の音楽をラッシュに 合わせて即興演奏で制作。1958年にはキャノンボール・アダレイを加えて、バンドはセクステット(6人編成)になる。同年にはキャノンボールの『サムシ ン・エルス』に参加。また、レッド・ガーランドが退団したため、ピアノにビル・エヴァンスを迎える。ビルはバンドにクラシック音楽(特にラヴェル、ラフマ ニノフ)の知識を持ち込みマイルスに影響を与えたが、黒人のピアニストを雇わなかったことでマイルスのバンドの黒人ファン等からの人種差別問題など(当時 唯一の白人メンバーだった)で7ヶ月余りで脱退。その後ビルを特別に呼び戻し、代表作の一つ『カインド・オブ・ブルー』を制作。モード・ジャズの方法論を 示した。

1960年代
1960年にジョン・コルトレーンがグループを脱退、他のメンバーも随時交替する。ここからしばらくメン バーは固定されず(この時期ソニー・ロリンズや、J・J・ジョンソンらと再び共演している)、作品的にも目立ったものは少なく、ライブレコーディングが中 心となっていく。1963年ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスがグループに参加。1964年7月に初来日。同年秋にはウェイ ン・ショーターを迎え、マイルス、ウェイン、ハービー、ロン、トニーという第二期クインテットが確立。1968年前半までこのメンバーで活動した。途中マ イルスが健康状態の悪化で活動の休止を余儀なくされる時期もあり、録音された作品はそこまで多くは無かったが『ソーサラー』『ネフェルティティ』など優れ たアルバムを発表し、演奏面でも作曲面でも4ビートスタイルのジャズとしては最高水準まで昇りつめた5人は、「黄金クインテット」と呼ばれる。マイルス自 身もこのクインテットを「偉大なバンド」と評しており、4人から学んだことも多かったと語っている。

1968年、8ビートのリズムとエレ クトリック楽器を導入した、『マイルス・イン・ザ・スカイ』を発表。その後ジョー・ザヴィヌルの協力を得て、その試みは1969年『イン・ア・サイレン ト・ウェイ』『ビッチェズ・ブリュー』といった作品で結実する。これらの作品が70年代以降のフュージョンブームの方向性を示すことになったとよく言われ る(しかし、実際にその音楽を聴くと分かることだが、マイルスが志向していくのはフュージョンではなく、ロックのリズムあるいはアフリカ音楽にあるポリリ ズムをベースにしたファンクジャズであり、70年以降、マイルスはファンクジャズを極めていくことになるのである)[要出典]


1970年代
フュー ジョンブームでかつてのメンバーのハービー・ハンコックやチック・コリアなどがヒット作を連発する一方で、マイルス自身はファンク色の強い、よりリズムを 強調したスタイルへと進展、フュージョンとは一線を画するハードな音楽を展開する。マイルスのエレクトリック期とはこの時期を指すことが多い。マイルスは 次々にスタイルを変えながらスタジオ録音とライヴを積極的に行ったが、公式に発表された音源は必ずしも多くはなく、後に未発表音源を収録した編集盤が多く 発売されることになる。1972年に発表された公式アルバムである『オン・ザ・コーナー』は、現在でもその先進性が話題となる問題作であった。しかし、こ ういったマイルスの音楽はセールス的には成功とはいえず、さらに健康状態も悪化、大阪でのライブ録音『アガルタ』『パンゲア』を最後に、1975年以降は 長い休息期間となる。


1980年代以降
1980年にマーカス・ミラーなどのサポートを得て活動再開、翌年に復帰作 『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』発表。1980年代はポップ色を強め、マイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーなどの作品を取り上げたり、バンドを従 えずあらかじめ出来上がったトラックの上にトランペットをかぶせるポップスミュージシャンのような制作スタイルを取り入れた。またプリンスなどにも接近し いくつかのセッションや録音をした他、ペイズリーパークでのプリンスのライブにゲストとして一部参加している。1990年には東京ドームにて行われたジョ ン・レノン追悼コンサートに出演し、ビートルズのストロベリー・フィールズ・フォーエバーをカバーした。さらに遺作『ドゥー・バップ』(1991年)では ヒップホップのミュージシャンであるイージー・モー・ビーをゲストに迎え、最後まで時代を見据えて活動した。1991年9月28日 、肺炎のため死去。65歳没。


音楽性
マイルスのトランペットのプレイのおおまかな特長としては、ミュートを(1940 年代後半~1950年前半に使用しているミュートは「カップ・ミュート」が主流で、「ハーマン・ミュート」を頻繁に使用するのは1950年代中頃から)使 い、ビブラートをあまりかけず、速いパッセージや跳躍の激しい演奏などといったテクニックにはあまり頼らないことがあげられる。またディジー・ガレスピー のようなハイトーンを避け、中音域がトランペットにおいて最も美しい音がでる、として多用し、音から音へ移動する場合、半音階(クロマティックな)を用い ている。後には、無駄な音を一切出さないといった方向性にも繋がっていき、メンバーにもそういった方向性を暗黙裡に求めた。楽曲上の主な特徴は、初期にお いては、テーマの後、それぞれが順にソロ演奏を行い、その間バックアップとして呼応したり煽る事はあっても、アドリブ演奏を同時に二つ以上ぶつけることは せず、その後、再びテーマに戻って終わるといった、ジャズでの典型的なものである。1960年代以降は、テーマに戻らずに終了する作品も見られる。また、 1980年代のステージでは、トランペットの他にシンセサイザーも演奏することがあった。

スタジオ盤においては、収録時間の関係上、編集 でカットされたり、つなぎ合わすことが多かったが、音を差し替えることはなかった。ステージに於いては、他のミュージシャンにもいえるが、スタジオ収録の 新作曲や最先端の音の披露よりも、その時の楽器編成で有名な曲を演奏する事が多かった。

クラシックなどのアレンジも研究し、クール・ジャズや後の完全にアレンジされたジャズにおいて、その成果が発揮された。特に彼が導入したスタイルにモード (旋法)がある。これらはチャーリー・パーカーらが得意としたビバップに限界を感じ音階にドレミが導入される以前の古い教会旋法を積極的にとりいれたアルバム『カインド・オブ・ブルー』でモードジャズの発端を開いた。

他にもブルース、ロック、ヒップホップなども取り入れ、ジャズの範囲ばかりではなく、様々なジャンルの音楽に注目していた。ジミ・ヘンドリックスやプリンスを高く評価していた話は有名だが、ジミとの共演は非公式なセッションだ けで終わり、プリンス作曲の「ジェイルバイト」の音源は、今も未発表のままとなっている。また、『ユア・アンダー・アレスト』ではスティングがナレーショ ンでゲスト参加し、マイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーのカバーも収録。

音楽的には柔軟で先進的な姿勢のマイルスも、フリー・ジャ ズの分野には手を染めず、オーネット・コールマンを批判したこともある。ステージパフォーマンスにおいては観客に背を向ける事が多く一部批判されたが、ケ ニー・ギャレットは「彼は指揮者なんだ」と擁護する発言を行っている。

2009年1月10日土曜日

JAZZ-Player : Biréli Lagrène (Franch. September 4, 1966)

Biréli Lagrène (born September 4, 1966) is a French guitarist and bassist. He came to prominence in the 1980s for his Django Reinhardt influenced style. He often performs within the swing, jazz fusion and post bop mediums.


Biréli Lagrène was born on September 4, 1966, in Soufflenheim, Bas-Rhin Alsace, France in a traditional Manouche-Romani people (Gypsy) family and community.
He started playing the guitar at the age of four.
He grew up in the loving but tough environment of the "tzigane".
His father Fisso (a very gifted violinist), his mother Berga and his brother Gaiti were his biggest influences.
When, at the age of eight, he covered Django Reinhardt’s repertoire, his relatives were already calling him a child prodigy.
Winning a Romani music festival in Strasbourg at the age of twelve gave him the opportunity to tour in Germany and, later, to record his performance on the LP Routes To Django - live At The Krokodil.

Offered a chance to leave for the United States, Lagrène met the greatest jazz musicians of the international scene such as Stéphane Grappelli, Benny Goodman, and Benny Carter.
In 1984, he met Larry Coryell in New York. Later, he was introduced to bassist Jaco Pastorius and ventured with him into jazz fusion.
Together, they toured Europe, which contributed a great deal to Lagrène’s musical emancipation.
Lagrène has also performed live with guitarist Al Di Meola.

Back to a more traditional style, Lagrène recorded Gipsy Project and Gipsy Project and Friends in 2002.
Along with his usual cohorts Diego Imbert (double bass) & Hono Winterstein (rhythm guitar), the latter session featured Henri Salvador and Thomas Dutronc, son of a legendary French pop pair - Françoise Hardy & Jacques Dutronc.






Discography
* 1980 Routes To Django - live At The Krokodil (jazzpoint)
* 1981 Biréli Swing ‘81
* 1981 Down in Town
* 1982 Fifteen (Antilles)
* 1984 Live at the Canergie Hall relica
* 1985 A tribute to Django Reinhardt (Live at the Carnegie Hall & Freiburg Jazz Festival) 2 cd
* 1985 Live with Vic Juris Inakustik
* 1986 Stuttgart Aria
* 1986 Heavy'n Jazz (Jaco Pastorius)
* 1988 Acoustic Moments Blue Note1986 : Lagrene and Guests
* 1987 Inferno
* 1988 Foreign Affairs
* 1989 Highlights
* 1983 Down In Town
* 1990 91 Acoustic moments
* 1994 Live in Marciac
* 1994 The Music of Django Reinhardt IMPORT Bob Wilber Randy Sandke Mike Peters Bireli Lagrene
* 1992 Standards Capitol
* 1995 My favorite Django
* 1998 The One And Only, together with Jimmy Rosenberg and Angelo Debarre (Hot Club Records)
* 1998 Mike Reinhardt Choukar
* 1998 Blue Eyes
* 1999 Duet avec Sylvain Luc
* 2000 A Tribute to Django Reinhardt: at the Carnegie H.and the Freiburg Jazz Fest. reedition
* 2000 Frontpage with Dennis Chambers Dominique Di Piazza
* 2001 Gipsy Project
* 2004 Move
* 2004 Bireli Lagrene & Friends Live Jazz à Vienne (DVD). L’intégrale en 32 morceaux du concert donné en 2002 par Biréli Lagrène et les meilleurs Jazzmen manouche.
* 2005 Bireli Lagrene & Gypsy Project Live in Paris DVD
* 2006 Djangology avec Big Band WDR de Cologne + solo To Bi or not to Bi
* 2007 Just the way you are
* 2008 Electric side
* 2009 Summertime avec Sylvain Luc
* 2009 Gipsy Trio
* 2010 Djangologists with The Rosenberg Trio

2009年1月9日金曜日

JAZZ-Player : Keith Jarrett ( USA 1945年5月8日 - )

Keith Jarrett ( USA 1945年5月8日 - )は、アメリカ合衆国のジャズ・クラシックピアニスト、作曲家。

ジャズ・ピアニストとして広く認識されているが、クラシック等、ジャンルを超えた音楽表現を身上とする。演奏楽器もピアノにとどまらず、ソプラノ・サックス、パーカッション、ハープシコード、リコーダーなど多岐にわたる。
メロディーの美しさもさることながら、中腰の姿勢で、時折うめき声を出しながらピアノを弾く姿が印象的。2003年、ポーラー賞を受賞。


ペンシルベニア州アレンタウンにて出生。
5人兄弟の長男として育ち、3歳頃よりピアノのレッスンを受ける。幼い頃から音楽の才能を発揮し、8歳の頃にはプロのピアニストとして自作の曲をコンサートで演奏するという経験をしている。
幼少期はクラシックの教育を受けていたが、高校時代からジャズに傾倒するようになった。
1964年のいわゆる「ジャズの10月革命」にも影響を受けたという。
卒業後はボストンのバークリー音楽大学へ進学し、自己のバンドを結成、ジャズ・ピアニストとしての活動を開始した。

ニューヨークへ活動拠点を移した後、1965年にアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーにジョン・ヒックスの後任として加入。
メッセンジャーズのアルバム『バターコーン・レディ』がレコード・デビュー作となった。
わずか2ヶ月あまりのメッセンジャーズ時代の後、翌年にはチャールス・ロイドのカルテットに参加し、ジャック・ディジョネットとともに注目される。
在籍中に発表されたロイドのアルバム『フォレスト・フラワー』は、60年代後期のジャズの作品としては最もヒットしたものの一つである。
1967年には後のアメリカン・カルテットでも共演するポール・モチアン、チャーリー・ヘイデンの2人を擁したトリオで初リーダー作『人生の二つの扉』をアトランティック・レコード傘下のVortexより発表している。ロイドのカルテットには1968年頃まで在籍。


マイルス・デイヴィス・バンド加入
1970年、マイルス・デイヴィスのバンドに参加。
当時のマイルスは発表したばかりの『ビッチェズ・ブリュー』のようなエレクトリックなサウンドを追求しており、今までジャレットが経験していたアコースティックのピアニストとしてではなくキーボーディストとしての登用だった。
入団前はエレクトリック楽器の演奏を嫌っていたが、入団後はその考えも変わったという(マイルス・デイヴィス自叙伝を参照)。
在籍初期は先に入団していたチック・コリアとのツイン・キーボード制のなかで、主にオルガンを演奏した。
この間にマイルス・グループの一員として「第3回ワイト島ポップ・フェスティバル」にてヒッピーの大群衆を前に演奏するという経験もしている。
3~4ヶ月という短いツイン・キーボード体制の後、チック・コリアの同バンド退団後はひとりでオルガンとエレクトリック・ピアノを担当し、ジャック・ディジョネットとともにバンド・サウンド決定の重要な担い手となった
在籍中の主なアルバムとしては、ライブ盤は『アット・フィルモア』『ライブ・イビル』、スタジオ盤では『ゲット・アップ・ウィズ・イット』『ディレクションズ』などがあり、その後のアコースティックが主体の活動に無い、エレクトリック楽器でのプレイが聴かれる。
マイルス・グループには1971年の終わり頃まで在籍。
これ以後、ジャレットはマイルスとの再共演を熱望していたが、1991年のマイルスの死までそれが果たされることはついに無かった。
ジャレットの1991年の作品(発売は1993年)『バイ・バイ・ブラックバード』はマイルスの死去後間もなくして追悼制作され、マイルスへ捧げられたものである。


1970年代
マイルス・グループ在籍中の1971年、グループのヨーロッパ・ツアー中に当時ドイツ・ミュンヘンの新興レーベルだったECMのオーナー、マンフレート・アイヒャーと出会う。
同年録音の初のピアノ・ソロ・アルバム『フェイシング・ユー』とジャック・ディジョネットとのデュオ『ルータ・アンド・ダイチャ』を嚆矢として、現在まで30年以上に渡ってECMより作品を発表し続けることになる。
『フェ イシング・ユー』ではあらかじめジャレットが作曲した曲がスタジオで演奏されており、このスタイルのピアノソロ作品としては『ステアケイス』、スタンダー ドを演奏した『メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー』などが挙げられるが、1972年頃よりプログラムの一切無い完全即興(Total Improvisation)によるピアノ・ソロ・コンサートを行うようになる。
ECMもそれらを積極的にレコーディングし、1973年にはブレーメン・ローザンヌで実際に行われたコンサートをそのまま収録したLPレコード3枚組(CDでは2枚組)の大作『ソロ・コンサート』をリリースし、音楽界に衝撃を与えた。



このスタイルでの実況録音盤の第2作である『ザ・ケルン・コンサート』はジャズのレコード・CDとして最も高い売上を記録したヒット作の一つで、ジャレットの名を広く知らしめた。






以後、現在に至るまで世界各地でピアノ・ソロ・コンサートを行い、折に触れて実況録音作品をリリースしており、ジャレットの一つのライフワークとも言える。

70年代においては、ピアノ・ソロでの活動と並行して2つのバンドを率いた。
1971年には以前から活動していたチャーリー・ヘイデン、ポール・モチアンとのトリオにサックスのデューイ・レッドマンを加えた通称「アメリカン・カルテット」を結成。
カ ルテットの音楽には、オーネット・コールマンとの共演歴があったレッドマン、ヘイデンによるフリージャズの要素や、ゲストとしてパーカッショニストのギレ ルメ・フランコやアイアート・モレイラらがしばしばバンドに参加したことからエキゾチックな民族音楽の要素も見られた。
初期にはアトランティックや、コロムビア、中後期にはインパルス、ECMといったレーベルに作品を残している。ジャレットは1974年にこのカルテットを率いて初来日を果たしている。

もう一つのバンドである通称「ヨーロピアン・カルテット」はパレ・ダニエルソン、ヨン・クリステンセン、そしてジャレットと並びECMを代表するミュージシャンであるヤン・ガルバレクという3人の北欧出身ミュージシャンを擁するカルテットで、ECMに4つの作品を残した。
スタイルとしてはアメリカン・カルテットに似ていたものの、こちらはヨーロッパの民謡に影響を受けた音楽を展開。
このカルテットも1979年に来日しており、これはヤン・ガルバレクの初来日でもあった。


1980年代以降
1978 年のゲイリー・ピーコックのアルバム『テイルズ・オブ・アナザー』が初めての顔合わせとなったキース・ジャレット、ゲイリー・ピーコック、ジャック・ディ ジョネットの組み合わせによるトリオは、1983年になって再びマンフレート・アイヒャーによって集められ、『スタンダーズVol.1』『スタンダーズ Vol.2』『チェンジス』の 3つのアルバムを発表した。
当時、これまで各々の活動を続け、各々の音楽性を持っていた3人が伝統的なスタイル、オーソドックスなスタンダード曲によるジャズを演奏し発表するというのは意外なことで、ジャズ界を沸かせた。
この通称「スタンダーズ・トリオ」は80年代以降のジャレットを代表する活動となり、2000年代に入った現在まで25年以上、継続してライブを行い作品を発表し続けるジャズ史上でも稀有なユニットとなった。

また、80年代後半から90年代にかけては、本格的なクラシック音楽のレコーディング活動を行っている。
こ れまでも『イン・ザ・ライト』など自作のクラシック作品を演奏・録音してきてはいたが、ECMのクラシック部門であるECM New Seriesの創設、その第一弾であるアルヴォ・ペルトの『タブラ・ラサ』のレコーディングへの参加が、ジャレットの最初の本格的なクラシック・現代音楽 作品の録音となった。
同アルバム収録の「フラトレス」でジャレットはギドン・クレーメルと共演している。
その後ジャレットは1987年の J.S.バッハの『平均律クラヴィーア曲集第1巻』を手始めとして、自身が作曲家として影響を受けたというJ.S.バッハとショスタコーヴィチ、他にはヘ ンデル、モーツァルトなどの作品を取り上げている。ピアノだけでなく、ハープシコード、クラヴィコードも演奏した。

1996年のイタリアでのコンサート中、ジャレットは激しい疲労感に襲われ、そのまま演奏することもままならない状態に陥ってしまう。
彼は慢性疲労症候群と診断され、同年の秋以降の活動予定を全てキャンセルして自宅での療養を余儀なくされた。
一時期はピアノを弾くことや外出はおろか人と会話する体力さえ無く、暗い闘病生活を送った。
1998 年に入ってやっとピアノが弾けるようになるまでになり、ようやく復活の兆しが見えた頃に自宅のスタジオにて録音されたのがピアノ・ソロ作品『メロディ・ アット・ナイト・ウィズ・ユー』で、この作品は療養中彼を献身的に支えた妻のローズ・アン・ジャレットに捧げられている。
翌年の同作の発表をもってジャレットは本格的に演奏活動を再開し、2010年の現在に至るまでソロとトリオの双方で精力的な活動を続けている。

日本との関係
1974年にアメリカン・カルテットを引き連れて初来日しているが、その後もソロ、カルテット、トリオなど様々な形で来日している。
2010年現在で日本での公演回数はすでに165回を超えており、ジャレットが最も多く演奏に訪れる国となっている。

ジャレットの来日で特筆すべきものの一つに、1976年11月のソロでの来日がある。この日本ツアーは札幌から福岡までの7都市を縦断、計8公演を行ったもので、この時はプロデューサーのマンフレート・アイヒャーも同行していた。
このツアーでのコンサートは全てアイヒャーによってレコーディングされ、そのうち6公演が後にLPレコード10枚組という大作『サンベア・コンサート』に収められている。1978年にはジャズのピアニストとしては異例となる日本武道館での単独公演を敢行。
ピアノ・ソロでのコンサートで12000人を動員。
1981年にも同様のコンサートを2日間行っており、24000人を動員した。

日 本でのコンサートの中にはレコーディングされ作品化されたものも多く、前述のソロ作品『サンベア・コンサート』をはじめ、1979年のヨーロピアン・カル テットによる『パーソナル・マウンテンズ』、1987年のソロ作品『ダーク・インターヴァル』、1996年のトリオ作品『TOKYO '96』、2001年のトリオ作品『オールウェイズ・レット・ミー・ゴー』・『イェスタデイズ』、2002年のソロ作品『レイディアンス』などのほか、映 像作品もある。

1989年のクラシック作品『ゴルトベルク変奏曲』は八ヶ岳高原音楽堂にて演奏・レコーディングされているが、この際使わ れたハープシコードは日本のハープシコード製作家高橋辰郎の手によるもので、ジャレット自身が江戸川区の工房を探し当てて発注したというエピソードもあ る。




Keith Jarrett Trio - "Four" From the album "My foolish heart" - Live in Montreux (ECM-2007)
Keith Jarrett (Piano), Gary Peacock (Bass), Jack DeJohnette (Drums)


主な活動ユニット
* キース・ジャレット・トリオ(スタンダーズ・トリオ)(1983年 -)
o ゲイリー・ピーコック - double bass
o ジャック・ディジョネット - drums

* アメリカン・カルテット(1971年 - 1976年)
o チャーリー・ヘイデン - bass
o ポール・モチアン - drums
o デューイ・レッドマン - tenor saxophone

* ヨーロピアン・カルテット(1974年 - 1979年)
o ヤン・ガルバレク - tenor saxophone、soprano saxophone
o パレ・ダニエルソン - double bass
o ヨン・クリステンセン - drums

アルバム
グループ(1960年代)
Don Jacoby and the College All-Stars
* Swinging Big Sound (1962)

Art Blakey & The Jazz Messengers (サイドマン)
* Buttercorn Lady (1966)

チャールス・ロイド・カルテット(サイドマン
* Dream Weaver (1966)
* Charles Lloyd Quartet Recorded In Concert - Flowering Of The Original (1966, ライブ)
* Forest Flower (1966)
* Love In (1967)
* Soundtrack (1968)


グループ(1970年代以降
ゲイリー・バートン&キース・ジャレット
* Gary Burton and Keith Jarrett (1970)

Keith Jarrett/Jack DeJohnette (デュオ)
* Ruta And Daitya (1971)

マイルス・デイビス・グループ (サイドマン)
* Live-Evil (1970, Live)
* Get Up With It (1970~74)
* The Cellar Door Sessions 1970

アメリカン・カルテット
* The Mourning of a Star (1971)
* Birth (1971)
* El Juicio (1971)
* Expectations (1972)
* Fort Yawuh (1973, ライブ)
* Backhand (1974)
* Treasure Island (1974)
* Death and the Flower (1974)
* Shades (1975)
* Mysteries (1975)
* Eyes of the Heart (1976, ライブ)
* The Survivor's Suite (1976)
* Byablue (1976)
* Bop-Be (1977)

ヨーロピアン・カルテット
* Belonging (1974)
* My Song (1978)
* Personal Mountains (1979, ライブ)
* Nude Ants:Live At The Village Vanguard (1979, ライブ)

キース・ジャレット、ゲイリー・ピーコック、ポール・モチアン
* At the Deer Head Inn (1992, ライブ)


「キース・ジャレット・トリオ」
(キース・ジャレット、ジャック・ディジョネット、ゲイリー・ピーコック)
* Changes (1983)
* Standards, Vol. 1 (1983)
* Standards, Vol. 2 (1983)
* Standards Live (1985, ライブ)
* Still Live (1986, ライブ)
* Changeless (1987)
* Standards in Norway (1989, ライブ)
* Tribute (1989, ライブ)
* The Cure (1990, ライブ)
* Bye Bye Blackbird (1991)
* At the Blue Note (1994, ライブ)
* Tokyo '96 (1996, ライブ)
* Whisper Not — Live in Paris 1999 (1999, ライブ)
* Inside Out (2000, ライブ)
* Always Let Me Go (2001, ライブ)
* The Out-of-Towners (2001, ライブ)
* Up for It - Live in Juan-les-Pins, July 2002 (2002, ライブ)
* My Foolish Heart - Live at Montreux (2001, ライブ)
* Setting Standards: The New York Sessions (2008)
* Yesterdays (2001, ライブ)


ソロ
* Restoration Ruin (1968)
* Life Between The Exit Signs (1967)
* Facing You (1971)
* Solo Concerts:Bremen and Lausanne (1973, ライブ)
* The Köln Concert (ケルン・コンサート)(1975, ライブ)
* Sun Bear Concerts  (サン・ベア・コンサート)(1976, ライブ) 6枚組
* Staircase (1976)
* Invocations/The Moth And The Flame (1979/1980)
* The Moth and the Flame (1981)
* Concerts:Bregenz and München (1981, ライブ)
* Spirits 1 & 2 (1985)
* Book of Ways (1988)
* Dark Intervals (1988, ライブ)
* Paris Concert (1988, ライブ)
* Vienna Concert (1991, ライブ)
* La Scala (1995, ライブ)


* The Melody At Night, With You (1999)
* Radiance (2005, ライブ)
* The Carnegie Hall Concert (2006, ライブ)
* Testament (2009, ライブ)

クラシック関連作品
* In The Light (1973)
* Luminessence (1974)
* Arbour Zena (1975)
* The Celestial Hawk (1980)
* George Ivanovich Gurdjieff: Sacred Hymns (1980)
* Johann Sebastian Bach: Das Wohltemperierte Klavier, Buch I (1987)
* Johann Sebastian Bach: Goldberg Variations (1989)
* Alan Hovhaness: Lousadzak For Piano And Orchestra』(1989)
* Johann Sebastian Bach: Das Wohltemperierte Klavier, Buch II (1990)
* Dmitri Shostakovich: 24 Preludes And Fugues Op. 87 (1991)
* Johann Sebastian Bach: The French Suites (1991)
* Peggy Glanville-Hicks: Etruscan Concerto (1991)
* Bridge of Light』(1993)
* Georg Friedrich Händel: Suites For Keyboard (1993)
* Wolfgang Amadeus Mozart: Piano Concertos, Masonic Funeral Music, Symphony In G Minor (1994)
* Wolfgang Amadeus Mozart:Piano Concertos K.271,453,466 Adagio And Fugue K.546 (1999)


Keith Jarrett/Dennis Russell Davies

* Ritual (1977)


Keith Jarrett/Gidon Kremer

* Arvo Pärt, Fratres on Tabula Rasa (1984)


Keith Jarrett/Michala Petri

* Georg Friedrich Händel, Six Sonatas for Recorder and Harpsichord (1990)
* Johann Sebastian Bach: Flute Sonatas (1992)


Kim Kashkashian/Keith Jarrett

* Johann Sebastian Bach: 3 Sonaten Für Viola Da Gamba Und Cembalo (1991)

2009年1月8日木曜日

JAZZ-Player : Stefano Bollani (Milano, 5 dicembre 1972)


Stefano Bollani (Milano, 5 dicembre 1972) è un compositore e pianista jazz italiano.

Biografia
Bollani si è diplomato in pianoforte al conservatorio di Firenze nel 1993. Studia jazz con diversi insegnanti tra cui il grandissimo Luca Flores, dalla cui naturalezza nell'improvvisazione al pianoforte rimane folgorato. Dopo una breve esperienza pop con Irene Grandi, Raf e Jovanotti è diventato velocemente uno dei jazzisti italiani più apprezzati da critica e pubblico.

Ha collaborato con molti grandi musicisti, come Gato Barbieri, Lee Konitz, Pat Metheny, Michel Portal, Enrico Rava, Paolo Fresu, Richard Galliano, Han Bennink e Phil Woods. La collaborazione più importante e prolifica è quella col suo mentore, il trombettista Enrico Rava.
Nel 1998 Bollani vince il premio della rivista Musica jazz come miglior nuovo talento, premio conferitogli anche dalla rivista giapponese Swing journal (New Star Award) nel 2003, anno in cui la rivista inglese Mojo segnala il suo disco Småt Småt come uno dei migliori dell'anno. Tra gli ultimi lavori I Visionari (2005), in formazione di quintetto, Piano Solo (2006), The Third Man (2007), con il trombettista Rava, e l'ultimo BollaniCarioca (2007) in cui il pianista con alcuni altri musicisti rivisita brani della tradizione brasiliana. Sempre nel 2007 Bollani vince il prestigioso Hans Koller European Jazz Prize come migliore musicista europeo dell’anno 2007.

Lo stile di Bollani è particolarmente eclettico e ricchissimo di citazioni musicali, ama scherzare ed improvvisare con il pubblico e non disdegna collaborazioni originali come quelle coi cantautori Massimo Altomare e Bobo Rondelli (con il quale ha inciso l'album Disperati intellettuali ubriaconi da Bollani personalmente arrangiato), spettacoli teatrali con l'attore David Riondino e la Banda Osiris, apparizioni televisive (Meno siamo meglio stiamo con Renzo Arbore) e radiofoniche (Caterpillar, su Radio Due). Dal 2006 conduce la trasmissione radiofonica Il Dottor Djembe; via dal solito tam tam, insieme a David Riondino e a Mirko Guerrini, in onda su Radio Tre.

Bollani ha pubblicato anche alcuni libri fra cui L'America di Renato Carosone e La sindrome di Brontolo [1]. Nel 2008 riceve, insieme ad Enrico Rava, una Nomination come Best Jazz Album per "The Third Man", agli Italian Jazz Awards 2008 "Luca Flores". Dall'anno 2008 Stefano Bollani riveste la carica di Gran Visir del Sultanato dello Swing, su investitura effettuata dal sultano Freddy Colt.

È stato[senza fonte] sposato con la cantante Petra Magoni. Nel 2009 ha collaborato, fra gli altri, con Chick Corea proponendo un duo pianistico senza precedenti in varie città d'Italia. Contemporaneamente ha tenuto 14 date con il concerto "Carioca", da cui sono stati estratti il DVD e il Blu-ray Disc editi dalla casa discografica Ermitage prodotti da Gianni Salvioni.

Nello stesso anno ha suonato il pianoforte nell'ultimo disco di Claudio Baglioni "Q.P.G.A." nella canzone "Via di Ripetta". Firmatario del Manifesto di Reading con l'attrice e ricercatrice vocale Elisabetta Fadini, il trombettista Paolo Fresu, il cantante-autore Mauro Ermanno Giovanardi, l'attore Alessandro Bergonzoni, il trombettista Fabrizio Bosso, la cantante Elena Ledda, il sassofonista Daniele Scannapieco, il sassofonista Rosario Giuliani, il cantautore Gianmaria Testa, lo scrittore Enrico Brizzi, il musicista-compositore-produttore Gianni Maroccolo, il cantante-musicista Cristiano Godano.


Discografia
* Gnòsi delle fanfole - Sonica, 1998; su testi di Fosco Maraini
* Mambo italiano - Philology, 1999
* The Macerata Concert - Philology, 2000
* Abbassa la tua radio - Ermitage, 2001
* Disperati intellettuali ubriaconi con Bobo Rondelli - Arroyo Records, 2002
* Les fleurs bleues - Label Bleu, 2002; ispirato all'omonimo libro di Raymond Queneau
* Småt Småt - Label Bleu, 2003
* L'orchestra del Titanic - Millesuoni, 2003
* Il cielo da quaggiù - Millesuoni 2003
* Concertone - Label Bleu, 2004
* Close to You - Sundance, 2004
* Mi ritorni in mente - Sundance, 2004
* Gleda - Sundance, 2005
* Jazz italiano live 2006 - Gruppo Editoriale L'Espresso, 2006
* I visionari - Label Bleu, 2006
* Piano solo - ECM 2006
* Ma l'amore no - Venus 2007
* Italian Lessons - Giottomusic 2007
* The third man - ECM 2007 - Nomination come BEST ALBUM - Italian Jazz Awards 2008
* Francis Poulenc: Les Animaux Modéles - Concert champêtre - Improvisations... - Avie, 2007
* BollaniCarioca - Edizioni Musicali Prima o Poi 2007
* I'm in the Mood for Love - Incipit 2008
* Omaggio alle occasioni perdute - Ordine agitato - Gruppo Editoriale L'Espresso, 2008
* BollaniCarioca - Universal Music 2008, contiene tracce inedite live
* Stone in the water - ECM 2009
* Carioca Live - DVD Ermitage- Medusa 2009
* Carisch Jazz- Stefano Bollani - Primo volume di spartiti che inaugura la collana Carisch Jazz 2010

Edizioni giapponesi
* Volare
* Black and Tan Fantasy
* Falando de amor
* Ma l'amore no

Collaborazioni
* "Do You Know What It Means to Miss New Orleans?" in Jazzfriends for Emergency, compilation live prodotta da Winitalia, Philology Jazz 2008
* Joanna Rimmer. Dedicated to... just me! - Sam productions, 2008
* Michele Francesco Schiavon Stefano Bollani: Portrait in Blue - HARVEY FILM, 2009
* Addio Amore in Nessuna Pietà, compilation a cura di Marco Vichi 2009

Jazz-ジャンル:③-⑥モード・ジャズ(含む新主流派)

コード進行よりもモード (旋法)を用いて演奏されるジャズ。モダン・ジャズのサブ・ジャンルのひとつである。

1950年代後半に試され始め、1958年リリースの、マイルス・デイヴィスのアルバム「カインド・オブ・ブルー」で完成された。


「カインド・オブ・ブルー」

ジャズ・トランペット奏者のマイルス・デイヴィスが、自らのバンドで1959年に録音し、同年コロムビア・レコードから発表したアルバム。モード・ジャズを代表する作品の一つ。
* A面
1. So What
2. Freddie Freeloader
3. Blue In Green
* B面
1. All Blues
2. Flamenco Sketches
* 正規CD追加収録
o フラメンコ・スケッチ(別テイク)

メンバー
* マイルス・デイヴィス - トランペット
* ジョン・コルトレーン - テナー・サックス
* キャノンボール・アダレイ - アルト・サックス(on1.,2.,4.,5.,6.)
* ビル・エヴァンス - ピアノ(on1.,3.,4.,5.,6.)
* ウィントン・ケリー - ピアノ(on2.)
* ポール・チェンバース - ベース
* ジミー・コブ - ドラム

2009年1月7日水曜日

JAZZ-Player: Duke Ellington

<Edward Kennedy "Duke" Ellington> (1899年4月29日 - 1974年5月24日)
アメリカ合衆国 ワシントンD.C.出身のジャズのピアノ奏者、オーケストラリーダー。


1899 年、ワシントンD.C.で生まれる。父親は、著名な白人医師ミドルトン・カスバートの執事であり時々ホワイトハウスへの仕出し業も行っていた。小学生の頃 からピアノを習い始め、ハイスクールでは校内のパーティでピアニストとして活躍していた。同時期に音楽教師から高度な作曲理論を学び(「私の音楽に対する 勉強は、GフラットとFシャープの違いを学んだことからはじまった」という言葉は有名)、1916年にピアニストとしてデビューした。その後ニューヨーク に進出し、1927年にニューヨーク市マンハッタン区ハーレムにある高級クラブ「コットン・クラブ」とバンド契約した。1930年代から第二次世界大戦後 にかけて『A列車で行こう』(作曲はビリー・ストレイホーン)など、音楽史に残る様々な作品を世に出した。



1964年に 新潟市で新潟地震が発生した際に日本公演を行っていた。地震の被害を知ったエリントンは次に予定されていたハワイ公演の予定をとり消して東京厚生年金会館 にて震災に対する募金を募ったコンサートを開催した。その後コンサートの純益である96万円が新潟市に贈られ、再来日した1966年には新潟市より国際親 善名誉市民の称号が贈られた。

エリントンが亡くなった現在でも彼が立ち上げたオーケストラは存続しており、2008年にも日本公演をしている。

2009年、コロンビア特別区から、エリントンとピアノをあしらった25セント記念硬貨が発行される。アフリカ系アメリカ人が硬貨に描かれるのはこれがはじめて。


映 画『絢爛たる殺人(Anatomy of a Murder)』の音楽でグラミー賞3部門を獲得したほか、合計9回グラミー賞を獲得している。また、1969年にはその貢献が認められて、リチャード・ ニクソン大統領よりアメリカ自由勲章が授けられた他、1973年にはフランス政府からレジオンドヌール勲章が授けられた。




代表曲
* 極東組曲
* 女王組曲
* ニューオリンズ組曲
* A列車で行こう
* 昔は良かったね
* ソリチュード
* ムード・インディゴ
* ロッキン・イン・リズム
* ザ・ムーチ
* 黒と茶の幻想
* キャラヴァン
* スイングしなけりゃ意味ないね


* イン・ア・センチメンタル・ムード
* Cジャム・ブルース
* パーディド
* サテン・ドール
* ソフィスティケイテッド・レディ



アルバム
* Duke Ellington at Fargo 1940(1940年録音、1978年初発表)
* Masterpieces by Ellington(1950年)
* Hi-Fi Ellington Uptown(1952年)
* Ellington at Newport(1956年)
* Such Sweet Thunder(1957年)
* Ella Fitzgerald Sings the Duke Ellington Songbook(1957年) - エラ・フィッツジェラルドとの連名
* Ellington Indigos(1958年)
* Newport Jazz Festival(1958年)
* Festival Session(1959年)
* Blues in Orbit(1959年)
* Anatomy of a Murder(1959年) - サウンドトラック
* Side by Side(1959年) - ジョニー・ホッジスとの連名
* Back to Back(1959年) - ジョニー・ホッジスとの連名
* Piano in the Foreground(1961年)
* Louis Armstrong & Duke Ellington(1961年)
* First Time! The Count Meets the Duke(1962年) - カウント・ベイシーとの連名
* Duke Ellington Meets Coleman Hawkins(1962年)
* Money Jungle(1962年)


* Duke Ellington & John Coltrane(1962年)
* Afro-Bossa(1962年)
* The Great Paris Concert(1963年録音、1973年発表)
* A Morning in Paris(1963年録音、1996年発表)
* Ella at Duke's Place(1965年)
* The Symphonic Ellington(1965年)
* Ella And Duke at the Cote D'Azur(1966年) - エラ・フィッツジェラルドとの連名
* The Popular Duke Ellington(1966年)
* The Far East Suite(1966年)
* ...And His Mother Called Him Bill(1967年)
* Francis A. & Edward K.(1968年)
* Latin American Suite(1968年)
* 70th Birthday Concert(1969年)
* New Orleans Suite(1970年)
* The Afro-Eurasian Eclipse(1971年)
* This One's for Blanton(1972年) - レイ・ブラウンとの連名
* The Ellington Suites(1959年~1972年録音、1976年発表)
* Yale Concert(1968年録音、1973年発表)
* Live at the Whitney(1972年録音、1995年発表)
* Duke's Big 4(1973年)
* Eastbourne performance(1974年)

2009年1月6日火曜日

Jazz-ジャンル:②スウィング・ジャズ

<スウィング・ジャズ>
1930年代から1940年代初めにかけて大流行した、白人が主体となって作られた大人数編成によるジャズの形態の一つ。
黒人ブラスバンドやマーチングバンドと呼ばれるものとは、音楽的には直接の関係はないとされるが、ブラスバンドから発展したともいわれている大人数のジャズ、ビッグバンドの形態の一つ。


「概要」
ジャズの系譜の中では初期のものにあたる。
スイングジャズは、スウィングのリズムを含んだ軽快なダンスミュージックであり、ジャズの特徴である即興演奏(アドリブ)や個人演奏(ソロ)よりも、念入りな打ち合わせに基づくビッグバンド全体での演奏(アンサンブル)に重点が置かれた。
世界大恐慌で、人々は甘く、癒しの音楽を望む傾向になった。
さらに、ラジオや蓄音機の登場で、レコードが普及、一定時間内に終わる必要性が出てきた
また、ライブを観に来た客も、レコードと同じ演奏を期待するようになった。
そのため、楽器曲の緻密なアレンジ(編曲)が要求され、アレンジャー(編曲者)も重要視されるようになった。

前時代のディキシーランド・ジャズよりも人数的には大編成であり、即興演奏に重点が置かれるそれに比べ、約束事にコントロールされたアレンジが必要となった。
その結果、ライブでもレコードと同じ演奏、甘く軽快でダンサブルな楽曲、大人数での調和などにその特色が見いだされる。


「音楽理論的側面 」
スウィング・ジャズの時代には、大編成のバンドが一般的となり、和声的にも幾分洗練されてきた。
スウィング・ジャズ時代の初頭は和声の本質においてはニューオーリンズ・ジャズやディキシーランド・ジャズと大差はないが、セブンス・コードが基本となり、4声を主体としたセクショナル・ハーモニーが開拓された。さらに多くの声部のセクショナル・ハーモニーも用いられた

4声の密集配分のセクショナル・ハーモニーは、ジャズやポピュラー音楽の作曲、編曲学習者が身に付ける基本的な課題であり 4 Way Close として知られている。
また、大編成で多種類の楽器が用いられたことから、編曲者と演奏者との分業化が進み、管弦楽法やオーケストレーションの面でも進歩した(ニューオーリンズ・ジャズ・スタイルでは、演奏者の集合がすなわち編曲者であった)。
スウィング・ジャズ・スタイルが発展してくると、遠隔調への転調や内部転調も頻繁に用いられるようになり、和音もディミニッシュト・コードや、テンションがより積極的、システマチックに用いられるようになってきた。
音楽理論的には、クラシックの前期ロマン派の音楽と本質的には同じである。


代表的なミュージシャン

クラリネット
* アーティ・ショウ
* ベニー・グッドマン

サクソフォン
* ハーシャル・エバンス
* レスター・ヤング

トランペット
* ルイ・プリマ
* ルイ・アームストロング
* バック・クレイトン
* ハリー・エディソン
* キャット・アンダーソン
* ハリー・ジェイムス

トロンボーン
* グレン・ミラー
* トミー・ドーシー

ピアノ
* デューク・エリントン
* カウント・ベイシー
* フレッチャー・ヘンダーソン

その他
* フレディ・グリーン(ギター)
* ウォルター・ペイジ(ベース)
* ジョー・ジョーンズ(ドラム)
* ライオネル・ハンプトン(ヴィブラフォン)

Jazz-ジャンル:①ニューオーリンズ・ジャズ / ディキシーランド・ジャズ

<New Orleans Jazz>

1900年代に発生、1910年代までに確立したとされる、アーリージャズに属する一つで、発祥の町の名を冠したもの

米国南部ルイジアナ州ニューオーリンズ市(New Orleans, LA)周辺で南北戦争終了時ごろ、解放された黒人やクレオール(黒人と白人のハーフ)らで始められ、後の多様なスタイルのジャズに分かれていった音楽の一つで、以後のジャズ音楽のおおもとになった形式。
典型的なものは、コルネット(または、トランペット)、トロンボーン、クラリネットなどの3管が中心となって、集団即興演奏が特徴で、そういった楽器の編成や演奏スタイル、素材など、以後のジャズに影響を与えつつも、はっきり区別できる。

1920年代初頭に、ここニューオーリンズの歓楽街が閉鎖されたことにより、ここのジャズ演奏家は、シカゴ市などに流れ、活動の拠点を移すこととなる。ルイ・アームストロングなども例外ではなかった。しかし、彼らは、活動拠点を移しただけで、シカゴ・ジャズとは異なる。

1940 年代、音楽から遠ざかっていたニューオーリンズのミュージシャンたちがビル・ラッセルによって再発掘され、ニューオーリンズ・ジャズは再び注目を浴びる。 これを、古いジャズの復興という意味でリバイバル・ブームと呼ぶ。日本にも戦後アメリカ文化の流入によって受け入れられ、人気を博した。この時期のミュー ジシャンでは、バンク・ジョンソンジョージ・ルイスなどが有名である。

現在ニューオーリンズ・ジャズはモダン・ジャズやファンク、ラテン音楽などの影響を受けて進化を続ける独特の音楽としてニューオーリンズの町に根付いているが、ファンの高齢化などによって衰退の兆しが見える。



(音楽理論的には)
狭義の調性、つまり長調と短調に基づく音楽である。
和声的にはケーデンスの法則(カデンツの法則)を重視した和音連結が行われている。
また、近親調への転調や内部転調も行われていた。使用される和音はトライアドが主体であり、しばしばセブンス・コードも用いられた。
和声的にはクラシックの古典派と同じ内容をもっている。
ルイ・アームストロングは和声的側面、リズム的側面、スタイルの発展に大きく貢献した。
9thや13thといったテンションをよく用いたり、より複雑で難しいリズムのフレーズをしばしば用いた。
また、全てのパートが音楽的に同等の意味を持つアンサンブル主体のスタイルから、各楽器ごとにソロを回していくスタイルを一般的にしたのも彼である。
また彼は、ニュー・オーリンズの地域的なスタイルであったスキャットでメロディを歌うスタイルをシカゴへと持ち込み、ジャズのスタイルとして一般的なものにした。ジャズの特徴的な要素は、このころほぼ全て完成された。

<Dixieland Jazz>
クラシック・ジャズに分類される一分野。
「ジャズの最初の形態」と認識されることが多い。

ディキシーランド・ジャズは、時としてホット・ジャズまたはニューオーリンズ・ジャズとも言われ、20世紀初頭にニューオーリンズで発達したジャズのスタイルで、ニューオーリンズのバンドが1910年代にシカゴやニューヨークに移動して広まった。
ディ キシーランド・ジャズは、ブラスバンドの行進曲、フランスのカドリーユ、ラグタイム、そしてブルースが集まり結びついてできた音楽で、ピアノ、ギターまた はバンジョー、ドラムス、コントラバスまたはテューバといったリズム・セクションを従えて、トランペット(またはコルネット)、トロンボーン、クラリネッ トが、ポリフォニックな即興演奏を行う。

『ベイズン・ストリート・ブルース』や『聖者の行進』といった、ディキシーランド時代からよく知られたジャズのスタンダード・ソングは、ジャズ・ファンでない人にも知られている。

ディ キシーランドとは、アメリカ南部の諸州を指す通称や俗称。この名称の由来は諸説あるが、ルイジアナ州などは一時期、フランス領だった地域で、その間の流通 紙幣に10を表す「DIX」という文字が印字されており、その地方(LAND)という事から生まれたという説や、測量技師ディクソンの名によるとの説もあ る。ディクソンは相方のメーソンと共に、南部と北部を分ける線(メーソン=ディクソン・ライン)を引いた人物である。

2009年1月5日月曜日

JAZZ-目次

<Jazzとは>

19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ南部の都市を中心に発展した音楽形式。
アフリカ系アメリカ人の音楽形式と西洋音楽の技術と理論が融合して生まれた。
演奏の中に以下の要素を組み込むことが特徴的とされている。
ブルー・ノート
シンコペーション
スウィング、バラード
コール・アンド・レスポンス(掛け合い演奏)
インプロヴィゼーション
ポリリズム

その自由な表現形式は黒人音楽家のみならず白人音楽家にも注目され、技法や理論など急速に発展した。
20世紀半ばには人種の枠を越えた音楽のジャンルとして認識され、現代音楽理論をも内包する高度な体系をつくりあげた。
その結果、人種、国籍や狭義のジャンルを越えた音楽芸術の現代的様式の一つとなり、様々な方向性に発展を見せる現代の音楽の源流を形作った存在であると考えられている。




<Jazzのジャンル>

①ニューオーリンズ・ジャズ / ディキシーランド・ジャズ
何がニューオーリンズ・ジャズであり、何がディキシーランド・ジャズであるかという明確な合意はないが、初期の様に黒人によって演奏されるのがニューオーリンズジャズ、白人によって演奏されるのをディキシーランドジャズと区別するのが一般的である。

②スウィング・ジャズ

③モダン・ジャズ
③-①ビバップ 1940~
③-②クール・ジャズ
③-③ウエストコースト・ジャズ
③-④ハード・バップ
③-⑤ファンキー・ジャズ/ソウル・ジャズ
③-⑥モード・ジャズ(含む新主流派)
③-⑦新伝承派(1980年代台頭)
③-⑧ミレニアム(仮称:主に1990年以降)

④フリー・ジャズ 1960~

⑤シンフォニック・ジャズ

⑥ラテン・ジャズ
⑥-①アフロ・キューバン・ジャズ
⑥-②ブラジリアン・ジャズ

⑦ボサノヴァ 1906年代前半~

⑧ジャズ・ファンク(ファンキー・ジャズとは異なる)

⑨ジャズ・ロック

⑪クロスオーヴァー

⑫フュージョン
⑫-①スムーズジャズ

⑬アシッド・ジャズ

⑭ニュージャズ